夜景評論家丸々もとおさん
2003/11/12@立教大学
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ぴあに入社

「たまたま2、3年の頃にうちの父がもらった仕事で、観光ガイドを作るっていう仕事があったんですね。ガイドブックを作る。これは昭文社とか東京地図とかいろいろな地図会社があってそこが出している、書店にある「四国」とか「九州」とかっていうああいうガイドブックなんですけど、あれの取材とかをしてくれって言われたんですね。カメラ引っさげてですね、関西行ったり、佐渡島行ったりとか、ま、いろいろ、こう、したんですけど。ま、その辺りから、旅行するというよりも旅行した結果の表現とかって表れるもののほうが、なんか自分には合っているな、面白いなって思ったんですね。という流れから、じゃあ就職をするときにね、「どこを選ぼう?」と思ったときに、そんなことができそうなところ・・・でもなんかまだ自分の将来とかそんなもの見えなくて当然なのね。ま、神の啓示でもない限りは・・・自分の将来なんてわからなくて。どこを受けたらいいのか全然わからないわけですよ」


「だからとりあえず旅行関連とかガイド関連かなとちょっと思って、JTBはどうなんだろって思ったんですけど、JTBの「るるぶ」とか作るには、JTBに一回入って、そこから出版局みたいなところに行かないとダメだと。つまり配属がね、JTBに入ったはいいんだけど出版局にならない可能性があるわけね。これはマズいだろうと。で、且つ、バイトは給料安いだろうと・・・ツアーコンダクターも死ぬほど安いよと。いろいろ話聞くと、結構旅行系の夢っていうのは途絶えたんですけど。ですから、なんとなくよさそうなところ・・・全日空だったりとかJR東日本だったりとか、あとは電通とかアサツーとか・・・それで「ぴあ」とかっていうのがあって」


「で、基本的に電通は落ちたんですよね。その日の朝にですね、(歯を)磨いていたらですね、歯磨きをこう、スーツにこぼしちゃったんですよね。それがですね、試験場に行ったらですね、拭いたつもりなんですけど、歯磨き粉が浮き立ってきちゃって(笑い)。見たらあせっちゃってね、それで。で、自分が言いたいこと何も言えなくなっちゃって。基本的にそれダメなんだなと。自分が消したものがね、なんかこう、歯磨きを隠しながらこんなになって話していたら何言ってるのかわからなくなっちゃって」


---一同笑い

「結局ね、それで落ちたんですけど、あとのヤツはほとんど内定もらったんですけど。で、結局まぁ一番最初に決まったのが「ぴあ」だったんで。なんか面白そうな、新しい会社だしね、若い会社だからいいなと思って。ま、全日空とかJRとか行ってみると・・・ね、内定直前でこう、いろいろ行ったりとかすると、女の人がコピーとか取ってるわけですよ。それもイヤな感じだなぁと思って」

---一同笑い

「なんかやらされてるじゃん、仕事・・・みたいな(笑い)。なんかそういう自由なというか、「今どきそんな古臭いことやってどうすんだ?」みたいな感じのところがあって。「ぴあ」だったら全然そんな感じじゃなかったんですね。ま、行ってみるかということで、入社したという経緯があるんですね。で、ただ夜景自体はですね、相変わらず好きなものを見にいくという活動で、クルマは当然乗り回しているんで、クルマに乗って、例えば立教に来て、丸井の下とか止めておくわけですよ。で、あそこの駐車場のオヤジがすぐ計算間違えするんだよね。当時良かったんですね。(笑い) 地下駐車場にね、一日止めておいて300円とか言われたりとか。「計算間違い、今日しないかな?」と思いながらいつも止めてるんですよ。大学までクルマで来てね(笑い)。そんな感じでね。で、授業終わったら、クルマに乗って湘南とかあっちの伊豆のほうにガァーっと走っていって夜景見て帰ってくるとか、そんな感じでデートついでにそんなことしていたんですけど。そういう感じで大学を終えてまぁ入った後も、「ぴあ」で入って。で、「ぴあ」に入ったときにはうちの親が絵描きだったものですからね、そういう美術系だっていうんで、美術の素養も何もないのに美術記者っていうか編集部の美術担当・・・あそこってカテゴリーがジャンルで分かれていて、映画担当、演劇担当、音楽担当、美術担当とかって分かれてるんですけど、わたしは編集部の美術担当に出されちゃって「美術かぁ。イヤだな、地味で」と思っていて、それであの、「〜美術館展」とか「〜ギャラリー〜展」があるとか、そういうのもをとにかく取材して原稿を書く。わたしはあの、文章はですね、非常に苦手で、要はまぁ、小論文で偏差値が48とかですね、45とかですね、そのぐらいのレベルだったんですね」


「ところがそこで入ったときに「ぴあ」の先輩であった当時のデスクをやっていた人が早稲田の政経かなんかでですね、すっごく文章がうまい人なんですね。で、その人に朝まで・・・ホントにね、肌が紫色ぐらいにまでなるぐらいまで毎日徹夜してましたよね。あの一時間とか二時間しか寝ないでずっと会社にいてですね、自分が書いた原稿をその上司の家にFAXで送ってですね、それをチェックして朱入れしたヤツをまた書き直して、で、また送るんだけれどもまたダメになって、というような作業をもう、毎日のようにやっていたんですね。当時はバブルだったんですけど、結構そういう中でも恩恵を受けていた人たちっていうのはもうちょっとこう、上の人たちで、わたしなんかバブルの時代にいろんなお誘いがあったものの、そんなことはなかなかできずにですね、とにかく一生懸命仕事を・・・原稿書くっていう、学ぶっていうそんなような時期だったと思うんですね」


インドの子守話にぞっこん

「ただわたしが「ぴあ」に入ってから凄く思ったは、やっぱりこう、編集者としてとにかくスーパーウルトラ究極の編集者にどうせだったらめざしたいって勝手に思い込んじゃったりとかしてですね、であるならば、なんか「ぴあ」で情報誌で客観的情報で自分の個人的な分野みたいなものを表現できないような媒体でやるよりも、もうちょっとメッセージ性の強い媒体に行きたいなっていうのがあったし、ま、編集者としての枠ってやっぱり、女性誌を作る、書籍を作る、写真集を作る、情報誌を作るとか、専門誌を作るとか、ま、エロ本作るとかですね、全部違うわけですよ、テクニックが。こういうものは全部一通り経験しないと、スーパーにとか、ウルトラにはなれないと思ったんですよ。じゃあこれは転職かぁと思って(笑い)、じゃあ3年の2ヵ月、「ぴあ」にいて、で、次はじゃあわたしにない知識はアミューズメントとかエンターテインメントの取材は散々して原稿書いてきたし、編集的なところではグルメのムックを作ったりとかギャラリーの本作ったりとか、そういうこともやってたんで、じゃあこれは経済系の出版社にでも行ってみるかという感じで軽く思ってですね、会社辞めたんですね。決まる前に辞めてるっていうかね」


「で、辞めて、いろいろ考えて、うーんどうしようかなぁっと思って。ま、受けた会社・・・一応そこが決まって、で、面接、普通に受けて・・・朝日新聞に載ってたのね、中途募集で。で、どこに配属されるかわからないけど、経済系の会社だと。で、2ヵ月ぐらいブランクがあったんで、入社までにですね。で、インド行ったりとかして。で、インドってあの、子守話っていう・・・子守唄じゃなくて子守話っていう文化があって、寝る前に子どもにお話を聞かせて寝かせるっていう、そんなね、ことがあるんですね。「コレは面白い!」と思って、その間の2ヵ月を使って、「絵本とか作ったらウケるんじゃないか?世の中的に」とか勝手に思って、「これは子守話の取材だ」って言って、向こうのインドのイラストレーターとか会いにいくために、ぴあ時代に知り合った漫画家とフォトグラファーとわたしと3人で、とりあえずエア・インディア乗って行っちゃったわけですよ。で、向こうで適当にアポ取ってですね、教授に会ったりとかして・・・もう片言の英語でいろいろこう、やったんですね。で、まぁ、お腹壊したりとかいろいろあって途中で結局挫折したんですけど、インドに馴染みすぎちゃってですね、何もやる気なくなっちゃったんですね。一ヵ月ぐらいいると」


---一同笑い

「だら〜んとしちゃって(笑い)。日本語もね、友だち同士で言葉喋らないでね、「あー」とか「うー」とか言うだけでなんとなく、「あぁ、こいつはメシが食いたがってるな」とかそういうのがなんかわかるみたいな、そういう会話の世界になんとなく入っていくんですよ。で、そんなインドの逸話でひとつあったのが、昔話とか子守話というのは、昔々あるところにお爺さんとお婆さんが住んでいました。山へお爺さんは芝刈りに行って、お婆さんは川に洗濯に行くんですけど、そこまで大体、向こうからこっちに流れてきてる・・・そんな話は同じなんですけどね。ある日、お爺さんが山で畑仕事をしていると、ガネーシャっていう神様が降りてくるんですね。で、降りてきて、「お前は凄く働き者だから、ひとつ何か望みを叶えてやるよ」って言って、「じゃあひとつだけ・・・じゃあお婆さんと相談して明日もう一回来るからそのときに言っていいですか」って。で、家帰って、お婆ちゃんと話したんですね。「お爺ちゃんは働き者だからなあ。両手前にあるんだったら、もうひとつ後ろにね、もうひとつふたつぐらい付けてもらって、足とかももうひとつぐらいあったりとかするとね、かなり仕事もはかどるわよ。倍だよ、倍!」みたいな話があって・・・

---一同笑い

「そりゃそうだなぁみたいな話になって、畑に戻って、畑で・・・神様また来たんで、それを言ったんですね。で、「お前はそれでいいのか」と言うんで、「あぁ、いいよ」と言うんで、結局それで付けてもらったんです。で、それ以来、凄く仕事がはかどった。で、ある日、お爺さんは町へ出ていって、町の人たちはお爺さんを指差してね、「化け物だ、化け物だ!」って叫んだんですよ・・・っていうんで、終わるんですよ、この話はね。何の救いもないんですよ。このね、救いのなさ加減がね、なんとも楽しくてね(笑い)。あ、いいんだこれで・・・っていう、こういう絵本を作りたいなっていう・・・

---一同笑い

「この話聞いただけで行きたくなったんですよ。で、「あぁそうかぁ・・・なんかオチっていうのを必要としているものと必要としていないものがあって、実はオチのないところにもそういう美があるっていうかね、おもろさがあるのかなぁ」ってね。で、それがきっかけで行ったんですね」


人脈は自分で作る!365の出会いと経験

「でまぁ、結局挫折したんですけど、帰ってきて働き始めた「ぴあ」時代にですね、日経の人間とか実業日本とか東洋経済とかっていう・・・「ぴあ」時代にね、とにかくわたしが心掛けていたのは、テクニックを学ぶのはそんなに難しくないことなんですね。会う人からどんどん教わってどんどんどんどんテクニックを学んでいけばいいものなんですけど、人脈だけはですね、やっぱり自分が動いて作っていかないと、どうにもいかないことなんですね、こればっかりは。ということで、当時朝日新聞なんかでも依頼が来て書いたんですけど、一年で365人に会えば、一年で365の経験ができる・・・みたいな話をしたんですね。まあ、その記事に書いた・・・寄稿したんですけど、もう正にそのとおりで、とにかく一日一人、全然自分と違う人間で自分と全然違う仕事をしている人と出会うっていうのが、「ぴあ」時代の凄く目標になっていて、で、働いているときにも、もう仕事、凄いボロボロになってやりながらも、一ヵ月に一回、必ずパーティーを開くんですよ。それはわたしとフジテレビの友だちの人間がね、そういう中で知り合った人間と、あと「ぴあ」と、今でいうAMEXかなんかの秘書がいてですね、その4人で都内のですねハウス・・・スタジオというか家借りてですね、そこで鍋パーティーとか自分たちでいろいろ交互にし合ってるんですね。で、歌手の人が来たりとか、横澤さんっていうね今、吉本のね、ああいう人が来てくれて、ま、異業種交流会の先駆けみたいなことを結構やってたんですね。で、とにかく人にひとり、人を紹介する。で、紹介することによって自分の価値を上げるっていう、そういうパターンですよね」


「つまり、わたしたちがやったもので知り合った人たちが、何か新しいビジネスで成功していくと、逆にわたしたちは尊敬される・・・リスペクトされるっていうね(笑い)、そういう流れがうまくできるんですね。それをね、もう、がんがんがんがんやりまくってずうっとやってる中で、日経とか実業日本とかっていう経済系の雑誌の人たちと知り合って、凄く仲いい友だちになったんで、じゃあ、お前がね、「ぴあ」とかに転職するときにですね、いきなりジャンルの違うところに行って、お前ハッキリ言ってバカだから、って言われて(笑い)。全然そんな知識もないのに、そんなところに行ったらもうどうしようもないよ、使い物にならないんだから、お前にために勉強会開いてやるって話になったんですね。当時、銀座の4丁目の居酒屋でですね、男4、5人ぐらいで集まって、わたしのために、世の中の今、政治とか経済がどうなっているのかっていう話をとりあえずわたしにするわけですよ。で、いろいろこう、月一回ぐらいずうっと教えてくれたりとかしていて、なんとなくわかったようなわかっていないような、ただの飲み会だったような気もするんですけど。まぁ、やっていくうちに自分たちが同じ出版社の人間なんで、自分たちで何かできないかっていう話になったんですね」


“気持ちイイ”を基準に

「だいたい人が集まって、仲良くなって1、2ヵ月していくと、何か目標を持たないとその輪が成立しなくなるわけですよね。だからまぁとりあえず、何か成立するためのネタとして、出版社の人間だから可能なのは本を作るっていうテクニックはできるっていうことで、じゃあ、本をちょっと出すっていうのはどうかと。みんな、ネタを探しにいこうっていうか、自分でひとネタを今度持ち寄りましょうという話になったんですね。で、一ヵ月間ぐらいずうっと考えたんですよ。自分のネタって何なんだろうって思うわけですね。凄く今・・・この間も学生さんと話したんですけど、よく就職するときに、自己発見とか自分探しするじゃないですか。あれって凄くわたしは必要なものだと思っていて、当時、本何も出てなかったんですけど、自然とやっぱりわたし、自分の小さいときから全部、何をやったのかって、全部自分で客観的に書き出したりとかしていたんですね。「あ、こことここで自分はこう繋がっているんだ」とかって、ロジカルにいろいろこう考えたりとかして、「はぁなるほどぉ、俺ってバカだな」って感じでやるわけですね。そういうことって社会人になってからって、やらないんですね。なぜやらないのかっていうと忙しいからです。ただ単に。忙しいということにね、かまけているだけなんですけど、社会人になってから自分を振り返る、立ち止まるっていう瞬間がなかなか持ちにくいんですね」


「たまたまそれがきっかけになってわたしは家に帰って2、3週間ずうっと、自分の幼少の幼稚園の頃からですね、わたしを振り返り続けるわけですね。一回社会人になっているんで、振り返り方がもうちょっと賢くなっているんですけど、社会人になってからの経験もこういろいろ・・・例えば、あの取材がよかったとかっていうふうに、いろいろ社会人時代の履歴も振り返るんですけど、ただ一点、気をつけたことは、キーワードを出していくときに、自分にとって一番気持ちイイことかどうかってことだけ、ですね。幼稚園のときから社会人になるまでの間に・・・社会人になって今、たった一日前までの間に、自分にとって気持ちイイことがどれだけあったのかってことを全部書き出したんですね。これ、気持ちイイっていうのは一番本能に近くって、自分の価値に一番近い凄く大切なもので、例えば、どの夜景を見たときに気持ちイイっていうのもあったろうし、どんな勉強をしたときに一番気持ち良さを感じたってのもあっただろうし、どこの時間にいたときが一番気持ちイイのか、どの空間にいるときが自分が一番気持ち良く感じたのか、どんな人に会ったときに自分が気持ちイイと感じたのかっていう、気持ちイイ軸で自分の20数年間を整理したわけですね」


夜景ガイドを出したい!

「整理したものを結び付けていくと、何か夜とか、景色とか、なんかそんなものが出てきたんです、言葉が。グルーピング化していきますよね、出てきたキーワードを。夜とか景色なんだっていったら、夜景じゃん。考えたら、結構夜景やっぱ好きだっていうのがまた不意にこう、思い出したんですね。あ、夜景か。じゃ、夜景というものをもっと凄い・・・なんか本にするっていうのはどういうやり方があるのかなあって思ったときに、夜景だったら、夜景のスポットとか知ってるから、じゃあ夜景のガイド出してみよっか、っていうことでみんなで勉強会やってる居酒屋でですね、みんなに話したんですね。結構大ウケだったんですよ、それが。「夜景のガイドかあ。そういうの、ないよなあ」。で、当時はマトリックス書いたりとかしてですね、ガイドブックの計算、考え方としてマーケットがどうなっているのかっていうのを考えたんですね。つまり、都市型のガイドと郊外型のガイド。朝のガイドと夜のガイド、昼のガイドというような感じで楽しめるロジックを設定して考えたときに、例えば昼のガイドで都市であれば、例えば築地の朝市ですね、ああいうガイドなんですね。ところが夜の郊外っていうのがなかなかないんですね。夜の郊外のガイドって何があるんだろうってときに、ホント何もないんで、それはまさに夜景じゃん、みたいな感じで。ここがブラックマーケットじゃん!っていう・・・


---一同笑い

「それで、じゃあ、自分たちの出版社で出すといろいろ利害関係が生まれるんで、ほかの出版社に売り込みに行こうよっていって、サラリーマンやりながらほかの出版社に企画書作って売り込んでいったんです。自分たちの出版社を置いといて(笑い)。で、持っていったときに、まぁ、ひとつ目断られ、ふたつ目断られって・・・当時夜景なんかもう全然、雑誌の特集でもなんにも取り上げない時代なんで、そんなの必要なのかみたいなところがあるわけ。オヤジとかに聞けば、「夜景なんかみんな同じじゃん」とか言われるわけですよ。「どこがどう違うの?俺にはわからん!」」

---一同笑い

「「いや、違うんですけど」・・・違うってことをまだ説明できないんですよ、当時わたしは表現的にはね」


夜景評論家の誕生

「それが今後考えていかないといけない課題になると思ったんですけど、たまたまある情報を得て、小さな出版社の社長さんが夜景が好きだっていう話を聞いたんですね。当時、美術も好きだっていう話も聞いて、あ、そういえばわたしも美術部だったし、美術ガイドとかも作れそうだと思って、じゃこれ、美術ガイドとバーターで夜景ガイドを出してもらったらどうだろう、みたいな感じで、ふたつの企画を持っていったんですね。で、持っていって、「あ、いいんじゃない?」っていう話になって。ただ、美術の本より夜景の本を先に出させてねみたいな、ヤバいことになると思いまして。美術ガイド売れなかったら夜景ガイドもダメだっていう話になるとまずいから、とりあえず、美術ガイドの前に夜景ガイドを出してから美術ガイドを次に出していくんですね。っていう経緯があって、そこでまぁ、せっかく本を出すのであれば、何か肩書きつけたほうがいいかなっていうふうに思ったわけですよ。で、「夜景評論家」っていう肩書きをそのときつけたっていうのが・・・そこで初めて肩書きというか、まぁ、本を出して、肩書きとして夜景評論家という職業というか、曖昧な怪しい肩書きは生まれたわけですね、そうやって(笑い)。とにかく本名でやってたんでね・・・丸田基雄っていう本名で当時本出してますけど、まぁ、本名出しちゃったら結構漏洩化してですね、割と若い26歳、27歳で本出してるわけですよ、そうなるといろいろ来るわけですね。「お前、仕事やってないからこんなことやってる、夜景ばっか見てる」とかってさんざん言われる(笑い)。嫌なわけですね」


アラーキーとヘアヌードのお仕事

「それでまぁ、名前変えることになったんですけど、編集者的にも「ダイヤモンド」でやっているところである程度、広告的な発想で例えばタイアップの記事を作っていくとか、そういうのだいたいわかってきたんで、夜景の本を作っていると、今度、夜景のビジュアルに凄く興味を持ったんですね。で、編集者としてウルトラスーパーになるためには、ビジュアル的な編集ができなきゃあかんと思って、で、わたしは転職を決意したんですよ。「ダイヤモンド」の中で本を出してるって流れでもう、たぶんそっから半年後くらいからもう転職してるんですけど(笑い)、今度はKKベストセラーズっていう会社なんですね。「ワニの本」とか出している会社で、当時はですね、ヘアヌードブームが結構全盛になりつつあって。で、わたしは写真集編集部っていうところに配属になって、ヘアヌードの担当者になったんですね。いわゆる、女優を脱がして、写真を撮ると。まぁ、いきなり30ぐらいになってですね・・・30近くになっていて、その間もわたし、実は夜景の本出し続けているんですよね、毎年一冊。やりながら、その・・・ね、女優さんと、なんか、どっかの料亭かなんかで交渉してですね、あの・・・(笑い)、「どうですかね?」みたいな・・・


---一同笑い

「まぁ、カメラはいつも一緒にやっていたのが、荒木経惟さん・・・アラーキーと一緒に仕事をしていたんです。で、彼と一緒にハワイにロケに行って写真撮ってですね、本作ったりとかっていうのをずうっとやって。ま、写真集ね、三原じゅん子を脱がしたりとかですね、いろいろ、ま、やるんですけど(笑い)、そういうので、一年半ぐらいグラビアの編集知識っていうのが身に付くわけですね。全然作りが違うんですね。ライティングにしてもですね、使っているフィルムにしてもですね、全部が全部違うわけですね。印刷面の例えば製本の仕方とか。その辺を学んでいくうちにヘアヌードを終わっていったわけですね。ま、その辺で吸収した知識を夜景のほうに生かすわけですね、その年の。そんな感じでうまい状況でダブルワークをやるわけですね。で、こっちの人脈をこっちに生かす・・・つまりヘアヌードで知り合ったいろんなプロダクションとかいろんな女優さんとか、そういった人に夜景の本をあげちゃうんですけど、そうすると夜景の編集者として認知されるんですね、別な意味で。そうすると、普通の、一般のサラリーマンということではなくって、特別な人に見られる場合が多いわけですね。本まで出している(ということで)。価値が上がっているわけで、覚えられやすいんですね。覚えられることによって、逆に今度その人からいろんな声が掛かってきたときに、「こんな夜景の話があるから、こういうの雑誌でやってみない?」みたいな話を持ち掛けて下さるんですね。で、そういうところから得た人脈っていうものを今度、サラリーマンの仕事の編集のほうにまた生かしていくっていう感じで、会社に対してのセールス・・・そういう説得の仕方・・・基本的には副業禁止なんで、一緒にやっちゃいけないんです。でもわたしが夜景をやることによってどれだけのメリットが会社に与えられるのかっていうことを会社にこんこんと説明をして、それで会社に認めてもらうわけですよ」


「ま、グラビアの知識を終わった次に、「ザ・ベストマガジン」っていう、よりエロ本のほうにいっちゃったんですね。で、もう、なんでこんな年になってこんなことしなきゃいけないのっていう。そうですね・・・女性の下着を買いにいったりとかですね。岡田屋のカード持ってましたからね。毎日、割と裸見るっていう。そんなグラビアの生活っていうのをしながら、夜景評論家を一方で真面目に・・・真面目な顔でやっているっていう(笑い)、ことだったんですね。そっから今度、グラビアの知識っていうのがさらに高まっていったんで、会社のほうもちょっと異動になって、新しいギャンブル誌をですね今度立ち上げるっていう話・・・ギャンブルは全然やらないんですよ、とにかく。人生、ギャンブルしたいと思ってるんで、なんであっちにこんなお金使わなきゃいけないんだっていうね話で。そうじゃなくても、社交費に全部お金を使っているわけだから・・・一切貯金をしないっていうのがわたしのポリシーなんで。とにかくオール社交費になってるんで。ギャンブル誌っていうのに凄く違和感あったんですけど、でも、ひとつの雑誌を立ち上げていくっていうのは経験してないことだから面白いなと思って」


今度はリクルートへ

「で、ひとつの雑誌をそのときは副編みたいな形で立ち上げていったんですね。で、3号ぐらい出したときに、「んー、まぁとりあえず立ち上がったし」と思って、次の編集者として何かやりたいことって何なんだろうなと思ったときに、立ち上げることが結構面白かったんですよ。じゃあ、今度雑誌を立ち上げるとしたらこの会社じゃないなと思ったんですね。で、どこで立ち上げるのかなあって思ったときに、また、朝日新聞見てたらですね、リクルートが中途採用してたんですよ。「あ、これはなんかリクルートだったらなんかやれそうな気がするな。あそこ、ばんばん雑誌出してるし」なんて思って。で、なんか面接5回ぐらい受けさせられて、筆記試験とか適性試験とかさんざんやらされてですね、で、論文にもですね、あなたをPRして下さいみたいことがあるんですけど、夜景評論家で既にね、「トゥナイト」出てたりとか、いろいろちょこちょこテレビとか雑誌でいろいろやってたんですね。で、これで会社入ってから、「実は夜景評論家だったんです」って言ったらクビになっちゃうんで、もう鼻から夜景やっている人間として、編集として採れ、みたいな感じで、意気込みで(笑い)、面接では言うし、論文には夜景評論家であることを書きまくるし、みたいな感じでやったら、たまたまおもろいヤツだみたいな話になって、それで、ま、入ったんですね」


「入ったのが・・・32ぐらいのときに転職してるんですけど、転職ばっかしてたんで、配属先が「B-ing」っていう雑誌で、これは転職誌なんですけども。シャレになんない(笑い)。で、とりあえず、デスク業務みたいな感じでいろいろな人の編集を見ながら教えたり、自分も取材に行ったりとかっていう感じで、企業関係の人材系の取材っていうことをやってたんですね。で、一年半ぐらいやってたら、リクルートの編集のほうから営業のほうへ・・・ころころころころクオーターで変わるんで、方向性が。編集はもう要らないから、営業へシフトみたいな。編集がガァーっと整理されちゃったんですね。それでわたしは「メディアファクトリー」っていう会社に今度は出向することになったんです。その間も夜景の本出してやっているわけですけどね(笑い)」


「それで出向して、で、そこでは自分で、書籍の編集部だったんで、好きな書籍作っていいと。ただし売れるもので、みたいな話になって。さんざん人脈作ってきたんで、いろんな方向があるわけですよ。でも裸はやっちゃいけないって言われたんで、それはやらないということで、一番最初にB-ingでちょうどわたしが副業のすすめみたいなやつをやってたんで。連載で。これまた凄いんですけど。それをまず本にして、そこからたまたま今、堀プロダクションって上場してますけど、ホリプロの社長の堀ちゃんっていうのがですね、わたしの仲いい友だちなんですね。堀ちゃんが、「じゃあ、ホリプロも40周年でリクルートも40周年だし、ちょっとふたつの会社で組んで何かやろっか」みたいな話が銀座辺りの喫茶店かなんかで盛り上がっちゃって。それで「じゃあ第一弾は片平なぎささんの観光ガイドだ」っていうんで・・・なぎささんって、火曜サスペンス劇場でさんざん地方行ってるんで、凄く詳しいわけですよ。じゃあ、これはあの、凄く料理とかね、その、食事とかホテルとかすんごい詳しいんで、じゃあ、ちょっとガイドを作ろうという話になって作ったら、結構売れてですね、まぁ、駅弁祭りみたいなところでサイン会やったりとかですね、結構おばちゃんとかにも大ウケで。当時で言ったら、やっぱり6万、7万ぐらい売れたんですよ。で、だいたい一万売れればいいっていうぐらいの書籍の中で、6万、7万とか結構売れたんですね。それから今度、ホリプロの深田恭子とか優香ちゃんとか新山千春とか、あの辺のアイドル30人ぐらい集めて、ホリプロの写真集を作ったんですけど。その後に今度あの・・・最後一番怖かったんですけど、和田アキ子さんのを作ったんですけど、まぁアッコさんともスイートにずうっと籠りながら、ずうっと取材するっていうのを一ヵ月間ぐらい・・・」

---一同笑い

「すっごい、いい人で、頭切れる人で、楽しい人だったんですけどね(笑い)。で、それからそれ以外でもね、いろんなね、作家の絵本作ったりとか、盆栽の本作ったりとか、ま、いろんなことをやったんですね」


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