夜景評論家丸々もとおさん
2003/11/12@立教大学
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Profile:
立教大学社会学部観光学科卒業後、『WEEKLYぴあ』編集記者などを経て独立、現在は夜景評論家®としての活動に専念している。登録商標であることからもわかるように、夜景評論家として唯一無比の存在である。夜景学という新たな学問カテゴリーを提唱し、『東京夜景』シリーズなどの著作活動や講演活動を行っている。ホテル、レストランなどの夜景プロデュース・夜景コンサルタントとしても大活躍している。 公式サイト「夜景評論家 丸々もとおの SUPER YAKEI SIGHT」 


衝撃的な夜景との出合い

「どのあたりからどういきましょうか・・・質問は最後に、もしくは間でもいただいても構わないし」

---一応最後に設けるつもりですけれど・・・とりあえず、最初はあの・・・

「ま、プレゼンというほどのものでもないんですけどね、経歴というものを簡単に自己紹介程度にですね・・・簡単じゃないかもしれないですけど、話させていただくと、64年ですから平成元年ですよね、立教大学を卒業したのは。だから何年前かなって感じですけど、わたしは立高(立教高校)から行っているわけではないので、普通にあの、城北埼玉高校っていう東上線沿いの高校があったんですけど、そこから、ま、第1志望じゃなかったんですけどね大学的には、当時は何を血迷ってるのかわからないですけど、英語を勉強したいと思っていて、それが血迷っているかどうかはね、一般人には申し訳ないんだけど、割とこう普通に思っていたんですけど、志望校はね、全然別の大学だったんですけど、まぁ浪人して・・・浪人時代は多分、ビリヤードに一回行ったくらいであとはずっと勉強したくらいで、高校のときに寄り道したのが喫茶店に一回っていう、かなりそういう生活だったんですよね」


「なぜそんな生活になってしまったのかというと、まぁ夜景評論家になったきっかけっていうのは、元々小学校6年生のときにボーイスカウト活動というのを誘われて始めると。これはあの、うちの・・・その当時は、サッカーってあんまりメジャーじゃなかったんで、野球・・・リトルリーグに行くか、ボーイスカウト。要はどっちか・・・で、先に誘われたほうに行こうっていうかなり優柔不断な感じで。たまたまボーイスカウトの友だちから先に誘われたんで、じゃ、ボーイスカウトに行きましょうというんで入隊したんですね。小学校6年の4月だったですね。で、わたしは元々あの、親が長野県・・・産みに帰って長野県に籍がなぜか入ってしまったんですけど、実際育ったのは埼玉県の新座市というところで、立教までは、ひばりが丘っていう駅から急行でふたつ目みたいな、ま、そんな感じだったんですけどね。で、埼玉県の新座市っていうのは凄く平野部なので夜になると結構明かりは暗くなるんですね。見渡せば隣の壁とか街灯とか、ま、そんな感じの世界なので、夜景というものよりはただの住宅街の明かりでしかなくって、ま、ともしびに近いですね(笑い)」


「そういったところに育ってそのまま初恋したりや何やらというのがあって、ま、成長していくわけですけど、ボーイスカウトに入って初めて夏のキャンプなんですね、それが山梨の大菩薩峠っていうところに登りに行ったんですね。大体一週間ぐらい夏休み期間中のキャンプの中で、大体一週間のうちの一番メインっていうのが、山に登ること・・・ハイキングだったんですね。で、そのハイキングに朝から出かけていって、大菩薩峠に行って頂上まで行って、で、夕暮れから夜にかけて、下山していくんですけど。で、その下山していくちょうどまぁ今でいう勝沼とかですね、一宮とか、あの辺のまぁ甲府盆地のちょうど東側なんですけど、あの辺を夜景を初めてこう、上から見下ろした。つまり、、平地で育って壁しか見えなかったっていう・・・立った、その、身長百何十センチの身長でしか見てないというか目線がですね、いきなりまぁ、山の上に登って標高何百メーターみたいなところからいきなり街を見下ろしてしまったという経験。ま、それを見たときにほとんど凄い衝撃を食らったわけですね。あー、すんごい綺麗だなと。早い話が夜景を見てすっごい綺麗だなと思ったわけですね。で、こんなに綺麗なものって世の中にあるんだと」


深夜に徘徊する小学生

「まぁそのとき、なぜそのぐらい感動しちゃったかというと、また過去に遡ると、ちょうどうちの母親が絵描きで、父親も絵描きでデザイナーの事務所をやっていたりとか、小さいときから写生大会含めて本当にいろんなところに幼稚園ぐらいからですね、絵の・・・何ていうんですかね、飯能辺りの河川敷に行って高麗川辺りの風景描くとかですね、ま、そんな結構、ジュースがもらえるからとか景品もらえるから騙されて結構行って、絵を描いたりとかしていたんですね。美術館にはもう毎週のようにやっぱり上野のね・・・上野の森とかって散々行くし。ま、そんなような日常が凄くあったんですけど。だから何かを見て「あぁ綺麗だな」とか感じるみたいなところっていうのは、元々はなんかこう、小さなときから多少養われてきた部分ってちょっとあったのかもしれないんですけどね。で、それが小学校6年のときのその夜景を見て、ま、よりインパクトを強く・・・そういう素地があったんで感じたということなんですね。こんなに素敵な夜景があるんだったら、東京のほうがもっと明かりがあるわけですよね、山梨ってある意味、田舎なわけですから。じゃ、東京のほうが明かりがたくさんあるんだったら、じゃ、東京の夜景をもっと探してみたい、見てみたいっていう欲求にただ単純に駆られて。で、そのまま家に帰ったら、今度は、当時はですね、前のめりの競輪の選手が乗るような・・・まぁブレーキ付いてますけどああいうスポーツサイクルっていうかそういう自転車を買ってもらいですね、うちの親が早寝なんで夜の9時以降、「オトナの時間」っていわれて寝かされてたんですけど・・・(笑い)、10時になって親が寝てるんで、わたしは2階に・・・ベッドに帰って、それから家のちょっと小窓があってですね、まだ小さいですから抜け出して外回って自転車乗って、で、それで夜景を探しにいってたんですね。小学校6年の秋からずっと始まって。で、平日その辺うろうろしたりとか、まぁ、深夜徘徊する小学生なんですよね」


「で、中学校になっても同じように、例えば金八先生とかやっていた頃だったんで、堀切とかねあの辺でよくロケやってたんですけど、ああいうところから東京湾のところまで例えば週末だったら自転車でただ一目散に、帰ることなんか全く考えてないですよ、あの、とにかく見るっていう欲求だけでただ突き進んでって、戻ることは全く計算してないです。とにかく行くっていうことで朝までずうっと走り続けるっていう。ま、そんな感じの生活をしてたんですね。えー、まぁ剣道やったり、中学校でやっぱり県大会出るとかっていうんで水泳やってたりとかいうことと並行しながら趣味として、普通の人だったら例えば映画が好きになって映画鑑賞、音楽だったら例えば当時だったらバンドのほうに行く人、スポーツに走る人も凄くたくさんいるんですけど、わたしは誰にも言わなかったんだけど、そういう意味で夜景を見るっていうことが自分のライフワークであり、呼吸するがように気持ちいいことなわけですよ。この「音楽聴いたら気持ちよくなるな」とか、「あ、このミュージシャンいいな」とかって思うような感覚で「あ、こんな夜景が見えたらいいな・・・あ、見えた。気持ちいい」みたいな。そのぐらい呼吸するがように夜景を見にいく、探しにいくっていうのが好きだったんで」


夜景は、向こうからはやってこない

「それが高校になったら、まぁその城北埼玉高校というところに通って、で、まあ、その高校は進学校でですね、できたばっかりで、まだわたしは2期生だったんですね。偏差値はまだ低くてですね、今では県下でもかなりトップクラスで、浦高(浦和高校)でもね、滑り止めにならないとか言うぐらいの私立高校になっちゃったんですけど、当時はもう、偏差値60切ってるぐらいの、まぁホントに滑り止め中の滑り止めみたいな・・・いう感じの高校だったんですけど、割と禁欲的な生活というか、非常に厳しい学校で、高校1年のときから大学の名前をねロクに口にするとお前らバカなんだからみたいな感じで(笑い)、かなり言われ。帽子を被って行かなかったら帰りは坊主にされてるとか、結構そのぐらいの・・・学校全体でボイコットやったぐらいのね、その教師の余りの酷さに、締め付けに・・・っていうぐらいあって。ですから喫茶店行ったの一回ぐらいっていうのは、見つかったら大変なことになるから、真っ直ぐ帰んなきゃいけないっていう。ま、そういうのもあったんですけどね」


「高校のときも休みの日には、わたしと同じクラスの学生・・・ま、男子校だったんでね、4人ぐらいと要は旅行に行くというわけで、旅行サークルみたいな感じでね、なんとなくプライベートに作っていって。で、じゃ、京都に行くんだったら京都の旅行のガイドっていうか自分たちで小冊子を作るんですよ、わざわざ。で、銀閣寺とかって、一応いろいろ銀閣寺について書いたりとかね。表紙はわたしがイラストでちょっと下手なんだけど手書きしてみてみたいな感じで、20ページぐらいの小冊子。スケジュールも全部バッチリ作ってそれのように回るわけですね。っていうのを毎年夏休み・・・夏休みっていうか休みのたびにですね。で、絶対その旅行中には夜景を見るっていうような感じですね。ですから六甲に登ったりとか、京都の例えば将軍塚行ったりとか、例えばそういうような地方のパノラマ的な夜景を見るみたいなところは、わたしが無意識にっていうかまぁ、かなり強引にですね、「あそこ綺麗だから夜はあそこ行こうぜ」みたいな感じで連れていかすっていうみたいな感じだったんですけど。で、まぁ自転車で走り回ったりとかあとはボーイスカウトで行ったキャンプ地で、いろんなその、夜景を見るみたいな行動っていうのはスカウトではやりつつ、休みのたんびには地方行くみたいな感じのこういう生活だったんですね。で、それやりながら勉強してた。ボーイスカウト活動してた、みたいな」


「早い話が人と接するというのはサークル活動とかあったんですけど、環境と接することも好きだったんですね。つまり夜景っていう、その、美しい環境というもので。それは向こうからはやってこない。こちら側から行かないとそれは得られないというものですよね。自分が移動しない限りは。ですから立教にいる限りは立教の夜景にしか出会えないわけでそれって非常に寂しいわけですよね、個人的には。それはなんかあれだなぁと思っていて、とりあえずどんどんどんどん海外とかですね、国内とか、ホントにいろんなところ旅行するというか、バイト・・・家庭教師のバイトをしたこととか、話すことを学ぶためにですね、電器屋さんの・・・まぁ要はコジマ電機とかヤマダ電機とか店頭でステレオ販売してるんですけど、ああいうところでステレオ売って、お客さんをいかに説得するためにはどんな売り方をしたらいいのかっていう。そんな決してね、話すのはね、好きでもなかったし、別にうまくもないし、今でも全然うまいとは思ってないんですけど、とりあえずでもなんか、営業的要素っていうのが少しバイトを通して学べればいいなっていうのがちょっとあって、土日のたんびに朝から晩までしてるって感じなんですけどね。で、そういうお金を稼いで、環境を変えていくために外に出ていったっていう感じの日々が続いていったんですね。

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山田系太楼 Yamada*K*taro