「企業経営に優れた手腕を発揮した人が政治の世界、殊に行政の長の領域へと足を踏み入れたものの…」と云う本文冒頭の件は、目下のところ、トランプ大統領を措いて他にないのだろうなと思う。至る所で軋轢ばかり起こしている印象だが、彼が破壊者としての手腕を発揮して、その成果を掌中に収める可能性は現段階で否定することの出来ないものがある。




(いずれも Alaska Johnチャンネルから)
1867年にロシアから買い取った時分には無駄金を使ったと非難轟々だったアラスカだったが、その後は自国領にしておいて本当に良かったことをアメリカは痛感した。日本の旅人から見ても、アンカレジを経由することが出来なかったなら、ヨーロッパはもっと遠い存在となっていたに違いない。




(いずれも Travel and railway landscape in japanチャンネルから)
辺境の地への道は、うら寂しく、しかし妙な希望にも満ちているものがある。未だ見ぬ端へと到達した時、人は今までの行路を振り返りつつ、来るべき針路への準備へと取り掛かる。その時、こんな所など必要ないとは思わないものだ。ここが日本で良かったと心底感じるのである。



(いずれも interurban6304チャンネルから)
人間と云うのは、集って肩を並べて過ごすと云う観点からすれば、元より都会的な存在である。都市文明の時代となっている現代では、尚更に、その色彩は強烈なものとなってくる。稚内の街に抱く彼の思いは、全く以て同感のものだ。最盛期には5万人台だった面影を随所に残す、現在人口3万人台の都市は原野とその先の海峡の中に燦然と輝く孤高の文明の防波堤のように映る。
第4話 本線と支線 小は大を兼ねず
はじめに

 企業経営に優れた手腕を発揮した人が政治の世界、殊に行政の長の領域へと足を踏み入れたものの、生んだのは軋轢ばかりで芳しい成果が上げられない場合がある。組織や集団の運営と云う観点からすれば、両者は同じようにも思えるが、決定的な違いがある。それは選択と集中の作法、それに脱落者・退場者の扱いについてだ。

 企業経営の場合は、経営資源を大胆に選択と集中によって再編することが可能である。不採算部門は廃業や売却によって切り捨てて、儲かる部門だけを見ることが比較的可能なのである。人員についても激しい労働争議や恨みを買うことはあるだろうが、覚悟を決めれば、大胆な首切りも出来ないものではない。そうして要らないものは全て捨てて、自分にとって非常に優位な環境の下でマネジメントを施すことが出来る。


近代性…勿体なくないと思っても捨てられない

 ところが国や自治体の場合には、なかなかそうも行かないものだ。これまた事業そのものから撤退したり、或いは民間に委託する形を採用して、公務員の数については、確かに削減することは出来る。しかし国民・市民と云う形で、国土の中に、市域県域の中に、住人として残る。更には不採算な事業であっても、公共性があるものの場合には、誰かが引き受けなければ、世の中の環境が悪化して、円滑に回らなくなることになる。実際のところは、その公共性ゆえに大概の事柄については、思い切って切り捨てることなど出来ないわけである。

 つまり企業経営の場合には、誰かに要らないものを押し付けることが出来たのだ。それで自分たちは身軽に成れて、勝手気ままに行動することが出来た。しかし国や自治体の場合には、部分的に身軽に成ったように思えても、最終的には全てを引き受けざるを得ないものとなる。なぜなら国民一人一人を疑似的な家族・仲間・同胞であると見做して見捨てない精神性が国家、殊に近代国民国家の成立原理だったからである(国家とは国の家、家のような国なのである)。近代国民国家の特性はその「参加性」にある。この参加意識、逆側から捉えるなら見捨てない姿勢…隣人愛を重んずる態度は、非常にキリスト教的であり、近代と云うもののバックグラウンドにキリスト教の精神が宿っている、一つの大きな例示とも、なるであろう。プロテスタントには長老派教会と云うものがあるが、これは教会の意思決定を信徒代表と牧師による「長老」によって行うことに因んだ呼称であることも思い起こされる。

 したがってそこにはある種のお節介とか粘着性と云うものが生じるものである。君主や教皇のような「権威」が制限されると云うことは、個々の成員が参加しないことには、組織内部が機能しなくなることを意味するからである。そのような営みの連続と蓄積が小集団から切り捨てられた存在を包摂して結着させ、また一回り強力な国や社会と云うものを形作ることとなるのだ。したがってあらゆる立場の人たちが、煩わしさから逃れられない立場となり、これを厭うことは、近代国家や社会を殺伐とした脆弱なものへと変化させる。アメリカでなぜあそこまで大々的に星条旗や愛国心を強調するのかと云えば、「放っておけ」と「放っておいてくれ」と云う勝手気ままな精神が「近代性」の只中に揉まれた結果、社会が非常に分断化されてしまっているからだ。サラダボウル的民族集団や教会活動が残存してきたのも、この分断化を補正するためと云えるが、根本的にはこの分断を結着させる装置はもはや、星条旗しか残されていないのである。プロテスタント信仰の自由を掲げるところからスタートし、ある面で非常にキリスト教的な国の結末としては何とも皮肉なものであるが。


成功をゴミ箱へ捨てる場合、捨てない場合

 大と小と云えば、品のないところだが、往々にして「トイレ」を思い起こすものだ。基本、今のトイレは水洗トイレだが、小の時分に大用の水を流しても問題ないが(勿体ないと云う人は居るだろうが)、大の時分に小用の水を流しても、全くよく流れないものである。このように小でうまくいったことが、大でもうまくいくとは限らない。これは鉄道に関しても当てはまる原理となる。

 国鉄末期を中心に、赤字ローカル線の廃止作業が行われた。廃止基準は、輸送密度が1日4,000人未満であることとされた。しかし例外事項も幾つか設けられており、例えばピーク時に一方向1時間当たり1,000人超となる場合は対象から除外された。この結果、多くの本線は生き残り、廃止対象とされたのは支線ばかりであった。本線と名の付くもので廃止されたのは、宗谷本線の名寄と石北本線の遠軽とを結ぶ名寄本線だけである。一連の「改革」は、国鉄の赤字をこれ以上拡大させないことや、これを引き継ぐ新生JRの経営負担のことを考えれば、幾らかの不条理はあったと云えども、概ね成功と云えるものだった。全国には本線とこれをバックアップする、さほど採算性の悪くはない支線が残された。

 ネットワークを構成することで、本線の太い流れをバックアップしていた支線網だが、本線もまたバックアップする側に回っている。それは採算性悪化を理由に切り捨てられた支線沿線地域に対するバックアップである。例えば、先述の名寄本線は廃止されたが、札幌方面から沿線最大都市紋別へ行くには、石北本線の特急を利用して遠軽まで向かい、そこでバスに乗り換えることでアクセス可能となる。また音威子府と稚内の間をオホーツク回りで結ぶ天北線も廃止されたが、これについても宗谷本線の特急で音威子府まで行き、そこからバスに乗れば良いわけだ。このように支線は、当該支線の沿線のみをカヴァーするものだが、本線は、当該本線沿線ばかりでなくその背後にある地域をもカヴァーする働きを持っているわけである。

 したがって国鉄末期の赤字ローカル線整理がうまくいったからと云って、これに味をしめて先例として倣い、これを今日の採算性の悪化した本線へと当てはめることは、地域振興や国土の統治と云った観点から非常に危険なものであると云わざるを得ないものだ。天北線の廃止は宗谷地方オホーツク海側にほぼ限定される問題だったが、宗谷本線の廃止は道北全般に累が及び、ひいては辺境地帯・国境地帯の統治の脆弱化へと進みかねない。これを経済合理性でのみ判断することは、近代国民国家として有り得ないことなのである。


おわりに

 結局のところ、最終的には、如何に知恵とセンスとを働かせて、事を見分けるかと云うことになる。例えば路線距離の短い支線で地域密着の取り組みを行い、イヴェント等の地域活動に積極的に参加し、或いは自らが主体となって企画し、また頻繁運転する普通列車主体のダイヤを組んだところ、営業成績が上がったからと云って、これをそのまま本線に当てはめたらどうなるだろう。「イヴェント等の地域活動に積極的に参加し、或いは自らが主体となって企画する」…この部分は全く問題が無い。しかし「頻繁運転する普通列車主体のダイヤを組む」と、その路線に特急列車が走っていた場合には、特急の速達性を阻害する可能性が生じてくる。また路線距離の短い支線に倣って、路線距離の長い本線でも長距離列車をぶつ切りにして短距離頻繁運転に舵を切ると、路線の一体性が崩れて本線が連続する支線の集まりに過ぎなくなるばかりか、本線の中の閑散区間が赤字ローカル線化してネットワーク構成の根幹が事実上分断される状態に陥る場合も出てくる。日豊本線の佐伯と延岡の間はその典型例となっている。それでも特急が走っている区間はまだ良いものだ。新たな路線の開業等により、特急が走らなくなると…根室本線の富良野-新得間や函館本線の倶知安-長万部間の状況は悲惨である。大幹線だったはずの新幹線の並行在来線でも、東北本線の白河付近や上越線の水上付近、山陽本線の和気付近では寂しい状況だ。

 先ずは区切らずに、全体として捉える視座を持つ思考が肝要だ。「本線」は伊達に本線を名乗っているわけではなかったのだ。昔の人には、知恵があった。概念がしっかりとしていた。経済合理性ばかりに走る現代人に最も欠けている点はそこである。支線の引受先は、本線が担える。しかし本線の引受先は、もはや存在しない。その地域もろとも切り捨てられることになるのだ。それでもその地域の住人は国の構成者として。その地域は国土を構成する存在として、幾ら干からびようが残り続ける。赤字の何かを切り捨てたところで、負債は連綿と残されることになるのだ。だってそこは国土の一部なのだから。・・・それとも外国へ譲渡しちゃいます?


興國演義 表紙
uploaded 2018.0902 by 山田系太楼どつとこむ
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