(ebtmikadoチャンネルから)
アメリカに最後に残ったインターアーバン(都市間電気鉄道)とされるサウスショアー線。シカゴから州を跨ぎ、インディアナ州サウスベンドまで140`に及ぶ。途中、併用軌道(路面電車)区間があるなど決して速くはない。

(Aaron Friedmanチャンネルから) ※路面電車区間は32:25〜

路面電車区間の存在はインターアーバンの一つの特徴でもあり、日本でも古くからの私鉄路線にはインターアーバンの薫りが漂う。距離は全く異なるものの個人的には、京阪京津線が一番しっくりくるイメージだ。一般の鉄道と路面電車の中間と云ったところで、路面電車用の車両を使用するが広電宮島線系統もインターアーバン風だ。

(seigen120kaihinチャンネルから)


(山陽鉄道ちゃんねるから)
インターアーバンは、速度が決して速くないことに加えて、道路とは違い、線路の維持管理を自前で行わなければならず、自動車交通に押される形で衰退していった。日本のインターアーバン的性格を有した路線ではその多くが後に「高速化」を行っている。何も新幹線のような高速鉄道になったと云う訳ではない。例えば札幌市営地下鉄はお役所的には「高速電車」と呼ぶ。

(tsfiooiチャンネルから)
確かにあの地下鉄の加速度は大したものだが最高速度はたかだか70`だ。一体これのどこが「高速」なのか。…答えは市電、つまり路面電車に対して高速であると云う意味合いなのである。


その札幌市電では2015年12月に嘗て廃止された西4丁目-すすきの間が延伸開業し、環状運転化された。今のところ利用者は予想以上に推移して好調のようである。

(ばすすとっぷチャンネルから)
ヨーロッパならすんなり実現されるであろうたかだか500bに満たない距離の延伸を巡り、激しい論争が展開されたことからも分かるように、道路ならいとも簡単に建設するところを鉄軌道の建設には「採算性」等の厳しい制約を課すものだ。これもまた「アメリカ脳」蔓延の一形態と云える。



第2話 自動車文明、アメリカ脳に侵された世界。
はじめに

 TPP(Trans-Pacific Partnership=環太平洋パートナーシップ協定)を始めとするガイアツに襲われると忽ち「アメリカ」に反発する声が上がる。このガイアツに屈すると日本社会のアメリカ化が進んで、折角ここまで築き上げてきた日本社会の財産が変質、崩壊の危機に瀕すると喧伝される。アメリカ流の企業経営や小さな政府の考え方は日本にはそぐわず、弱肉強食の蔓延が社会に深刻な影響を及ぼすとされてきた。しかし日本は本当に「ザ・弱肉強食」アメリカの流儀からは距離を置いてきたのだろうか。人々の思考法がアメリカのそれと大きく違ったものとなっているのだろうか。

 昨今、公共交通機関を取り巻く環境は一段と厳しさを増している。2016年11月には、JR北海道が自社単独での維持が困難な線区があると宣言したが、その距離は、営業路線の実に半数に上った。この環境変化にモータリゼーションの影響があることは誰の目にも明らかだが、なぜ自動車の普及が公共交通機関をこのような苦境へと陥らせるのか…そこにはアメリカと云う国の個性が深く関わっている。

アメリカ社会を貫く基本的思考 欧州との違い

 どのような耐久財もそうであるが、初期の段階で所有することの出来る人と云うのは、金持ちに限られる。それはとても高価なものであり、しばしば取扱いに窮する場合も多く、使用人に代表される他人の助力を得て漸く、維持・管理することが可能となる。したがって耐久財そのものを手に入れるために必要な費用とは別に、更に多額の維持管理費が掛かることになりかねず、これら全てを負担することが出来るのは勢い、王侯貴族や資本家階級しかいないことになる。ヨーロッパで発明された自動車も初期の頃は当然、このような状況にあった。

 初期の自動車は性能も悪く、既に鉄道と云う陸上交通の大動脈が普及していたから、専ら都市とその近郊への移動に用途が限られた。従来の馬車の代わりとして用いられたわけである。当時の自動車は車高が高く、車輪も大きく、デザイン的にも馬車そっくりであった。自動車が金持ちのステータスシンボルでしか無かった頃は、自動車を社会に普及させようと云う意志は薄弱なものとなる。大衆に広まればそれだけ特別感が薄れてしまうからだ。階級社会のヨーロッパでは当然の帰結だったとも云える。社会インフラとして既に鉄道と云うものが普及していたから、金持ちの趣味の延長線上と云った存在でも特段、困らなかったのである。

 この様相が大きく転換されたのが新興工業国アメリカの興隆である。公的には王侯貴族の存在しないアメリカは、ヨーロッパのような階級で分断された意識構成に基づいた社会ではない。建前として誰にでもチャンスは平等に与えられていて、それをものにさえすれば成功することが出来る…即ち金持ちになれる。そしてその金持ちが社会の指導的立場を獲るのである。このアメリカ社会の特性は、消費社会との相性が滅法良かった。階級社会のヨーロッパと比較して、経済活動の自由が幅広く保証され、金持ちになれる可能性のある人の割合も著しく多かったからである。

 階級社会のヨーロッパでは個人の人生が生まれた階級によって制限される側面も多々あるから、社会福祉の概念が発達した。社会主義的な革命の標的になっても困るから、王侯貴族や資本家たちにも個人的慈善活動に加えて、社会全体として福祉体制を整備しようとする発想が強くなる。ところがアメリカには王侯貴族が存在しないと云う意味で階級が無く皆平等だから、ある意味、共産主義的であり、貧乏なのは社会に責任があるのではなく、個人や家庭に責任があるのだとされた。

 (このようにアメリカ社会が「共産主義的」だったから、アメリカと本物の共産主義との相性は悪かったのである。ヨーロッパとは違い、アメリカの金持ちには貧乏人出身者が多く、貧乏人でも才覚があれば金持ちになれた。加えて政治家も庶民の出であるから、革命を起こして王侯貴族から政治権力を奪う必要も無い。)

 こうしてアメリカでは公的福祉の概念が発達せず、専ら個人や教会を中心とした慈善活動に社会的福祉が委ねられる結果となった。最下層の人々に最低限のサーヴィスさえ提供すればそれで社会の責任は果たしているのだと云う考え方が支配的なものになったのである。

アメリカ社会を貫く基本的思考 自由と人種

 階級社会ではない生まれながらに皆平等のアメリカは、自由な社会である。したがってこの個人の自由を守り、これを出来得る限り拡大することが、最も素晴らしい社会政策なのだとされた。近代文明の発展による消費社会の到来は、個人の活動の自由を拡大させる作用を抜群にもたらす為に、アメリカ社会との相性もまた抜群に優れていた。

 ここで自動車の持つ特性を思い起こそう。自動車は好きな時間に好きなだけ移動することが出来る非常に自由度の高い移動手段だ。鉄道ならダイヤに予定を合わせなければならない。馬車なら馬の疲労と云うものを考えなければならない。しかし自動車はダイヤに時間を縛られることもなく、オイルを足しさえすればどこまでも走ることが出来る。

 第1次大戦後、政治的にも経済的にも世界一の大国となったアメリカに世界史上初の本格的な中産階級が出現した時、自動車は完全に自由で民主的な乗り物となった。自由の恩恵に浴する人が多ければ多いほど素晴らしいと云うのがアメリカであるから、自動車を普及させることが最も素晴らしい行為と云うことになる。一方で自動車は金持ちの乗り物と云う意識も残っていた。したがって自動車を所有することが、社会的に成功したことを示す最も分かりやすい証と云うことにもなった。自動車を所有させることで、自由と豊かさを手に入れたと庶民に実感させることは、共産革命を防ぐ観点からも重要なことだ。鉄道は全て私鉄だったアメリカで、国家の手によって都市とその近郊だけでなく、国の隅々にまで道路が広く整備されていった。ここにアメリカは世界で初めて、自動車を主体とした交通体系を構築する国家となったのである。

 技術革新と大量生産大量消費社会の出現は、自動車の価格を大幅に下落させ、中産階級に達しない比較的低所得の庶民にまで自動車を普及させることとなった。「物凄く頑張れば」から「ちょっと頑張れば」自動車が手に入るようになったことで、自動車社会に対する問題意識は皆無のものとなった。

 本来なら自動車は贅沢品である。それは価格面もさることながら、鉄道のようにダイヤに縛られ、また、他の乗客と乗り合わせることを避けて、自由に独りで移動することが出来るからである。公共交通機関と云う言葉があることからも分かるように、全ての人が利用可能な鉄道やバスは公共的であり、自動車は私的な移動手段と云う位置付けだ。本来、私的なものと云うのは、公共的なものを支えた上で、それでも余裕がある場合に行われる事柄である。公教育があって私学があり、私塾もある。私学や私塾があるから、公教育は無くても良いとか、最低限のサーヴィスさえ提供すれば良いのだと云うことにはならない。私学や私塾は飽くまでも公教育を支えた上で、それでも余裕のある人が行く。

 ところが自動車の場合はそうなっていないのである。私学や私塾は公教育を破壊しない。前提として公教育があって、その上で存在している。ところが自動車交通は公共交通機関を破壊している。つまり今までどおりに公共交通機関の利便性を維持した上で、つまりそのための費用を皆で負担した上で、それでも余裕のある人が、本来的には自動車を所有すべきであるところを、なるべく自動車を所有する人を増やすために、公共交通の利便性維持の為の費用負担を自動車所有者に負わせていないのである。

 このことには「自由」と並ぶアメリカ社会の特徴である「人種」が影響している。豊かになり、自動車を所有して自由を手に入れたのは殆どが白人であり、黒人は変わらずに公共交通機関を利用し続けた。アメリカ白人が自動車に飛びついたのも、これで黒人と同じ鉄道やバスに乗らずに済むと云う意識が存分に働いていたことだろう。そして彼らには、黒人が使う公共交通機関の維持や利便性を確保しようなどと云う意識は無いのである。兎に角、この罰ゲームから一人でも多くの人間が脱出して自由を手に入れ、黒人から離れてせいせいすることこそ最も重要であるから、その人数を減らしてしまうような施策、即ち費用負担をして公共交通機関の利便性を維持することなど、もってのほかなのである。アメリカ社会は、本来強者ではない人間を、社会維持の負担の任から「解放」することで、疑似的に、或いは無理矢理に強者に仕立て上げて発展を遂げてきた。治安が悪いのはその代償であろう。

 いずれにせよ、こうして私権的存在だった自動車が公共交通網を破壊することを許容すると云う極めて特異な思考に基づく自動車文明がアメリカで誕生し、疑いなき既定の真理となって世界中へと広まっていった。

おわりに

 自由や平等の建前の下に、私権、即ち強者とその権利を最大限に拡大化させたのがアメリカ社会であり、その影響下で生まれた自動車文明の本質でもある。本来は強者の自由の産物であったものを、自由で平等で民主的なアメリカ社会が最大限、一般庶民へと開放した結果、公共は崩壊され、その皺寄せが残った弱者へと押し付けられている。それだけではない。見せかけの強者を多数作り出すために、国家や社会の発展も歪なものとなっている。しかし我々はアメリカ社会と云う特異な場に於いて誕生した自動車文明を、あたかも自明の真理のように受容してきた。自動車文明の利便性追求には際限がない。その「自由性」ゆえにコントロールが利かず、スプロール的にどこまでも展開される。

 公共交通機関の補助として使われるべき自動車が、交通分野でメインの存在となり、公共交通機関が自動車の補助として使われている現状を、特に疑いもせず、問題視せず、最低限の足さえ確保されればそれで良いと考えるアメリカ型思考が、強固だった日本をズタズタにしてしまっていることに気付くと共に、これを是正させなければならない。既に「TPP」は上陸していたのである…自動車文明と云う形で。アメリカンスタンダードに基づき、公的保険制度が破壊されると喧伝されたが、アメリカの申し子・自動車文明によって公共交通機関は既に破壊されているのだ。僻地等を除き、自動車の所有・使用と云うものを、公共交通機関の利便性を確保する費用負担に耐えてなお、余裕のある人を対象にしたものとして再定義しなければなるまい。もしそれが出来ないのなら、我々は既にアメリカ脳に浸食されていると云うことなのである。


興國演義 表紙
uploaded 2018.0211 by 山田系太楼どつとこむ
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