第4話「汝らのうち、罪なき者、まず石を投げうて」の精神とは
<前篇>
はじめに

 週刊誌の報道により先日明るみになった小室哲哉の不倫並びに彼の釈明会見に対するバッシングに対して、前東京都知事の舛添要一が、ヨハネ伝8章の一節「汝らのうち、罪なき者、まず石を投げうて」を引用する形でこれを批判しました。やましいことをしている人間たちが、正義感ぶって、特定の個人を攻撃するものではない、と云うことであるわけです。この有名なイエス・キリストの聖句は、まさに不倫現場、即ち姦通罪の現行犯で捕まったケースでの出来事でしたから、舛添要一の捉え方と云うものに特段の間違いはないのですが、しかし、この聖句はそのような硬直的な解釈を超えた日常的精神性を、私たちに問い掛けるものなのです。

聖句を解釈し、用いる際の注意点

 私の手元に有る新共同訳聖書から問題のシーンを引用してみましょう。
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 イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(ヨハネ伝8章1-11節)
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 状況を整理しましょう。前提、と云っても良いかもしれません。ここに出てくる人たちは全員、ユダヤ教徒です。神に帰依していて、モーセの律法の下で生きている人たちです。少なくとも建前的には。それからもう一つ、大事な観点があります。キリストは、死刑に処せられそうになっていた女の命を救いました。つまり、命を奪うと云う重い行為をするほどの資格を、あなた方は持っているのか、と云う問い掛けをしているわけです。それからもっと大事なことは、この死刑に処せられる寸前だった女が、既に悔い改めていることをキリストは見抜いていたと云うことです。それは当然、神の御子であるわけですから。それが証拠に女もキリストのことを「主よ」と呼んでいます。主、即ち神であります。女はキリストを神の御子であると認識していた、つまりキリストへの帰依の心を持っていることになります。他方、律法学者やファリサイ派は、キリストの権威を認めません。したがって女の方がキリストに近しい存在と云うことになるわけです。

 この部分を前提条件として認識しませんと、キリストの聖句の意味を取り違えることとなります。要は、悪用することになりかねません。ですから、舛添要一の捉え方には特段の間違いはないが硬直的だ…と先ほど述べた意味は、基本的にそう云うことです。小室哲哉はキリストに帰依していませんし、自分の行いを悔い改めているのか不明です。尤も彼を批判している人々も、キリストに帰依していない人々が殆どでしょうから、舛添要一の捉え方に「特段の間違いはない」ことになるわけです。

私は不正をしていないと云う、その自認は適切か

 ところで何らかの不正や違法行為、不道徳な行状に接した際に、自分はそのようなことを行っていないと云う自認の下に、その他者を非難する向きは、別に不倫などのパーソナルな問題に止まるものではありません。先日私は、面白い記事を見掛けました。鉄道会社に勤務していた折に、駅で不正乗車の摘発を行っていた体験談が綴られたものです。

元鉄道員が明かす不正乗車対策の実態「乗客が改札に来るまで身を隠して」
http://www.jprime.jp/articles/print/10252
この記事の中で特に、私の目を惹いた個所は次の部分です。
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ただ、この勤務終了間際の仕事で、私は現実を知ることになった。不正乗車をするのは高校生サーファーだけではない。地元の人も日常的に行っていたのだ。

ある日、白いブラウスを着た女性が、「乗り越しです」と気丈に告げながら、初乗り運賃の切符を突き出した。切符を見ると、遠距離通勤なのだろう、ここから1時間半以上もかかる駅からの乗車である。乗り越し清算は1500円以上なので、ほとんどの区間を無賃乗車したことになる。

確信犯だ。普段は駅員がいないので、不正乗車をしても発覚しない。こうして、毎月3万円以上も交通費を浮かせるのだ。このローカル線を、少なくとも地元の人たちは応援していると思っていた。夏に高校生サーファーが訪れるにしても、このあたりの収支は完全な赤字である。

事業である以上、赤字の額が大きくなれば鉄道路線は維持できない。自治体が継承するにしても、財政が厳しいので困難だろう。それでも地元は、列車本数の改善などを求める。しかし、その足元では、一部の住民が日常的に不正乗車をしているのだ。
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 さて、この記事を目にした人々は、濃淡の差こそあれ皆一様に、「不正乗車をするヤツは、けしからん」と思うことでしょう。そして自分はそんな不正行為に手を染めていない「正しい人」であることをも、たとえ無意識的であっても、認識しているわけです。しかし「汝らのうち、罪なき者、まず石を投げうて」の本質的精神に照らし合わせてみるならば、その自認が誤りである人々の数は決して少なくないでしょう。それはどうしてでしょうか。

 なぜ不正乗車が起きてくるのでしょうか。当たり前のことですが、乗車しているからです。鉄道を利用しているからこそ、生じてくるわけです。そして上記記事の筆者がショックを受けて嘆いている部分、「事業である以上、赤字の額が大きくなれば鉄道路線は維持できない。自治体が継承するにしても、財政が厳しいので困難だろう。それでも地元は、列車本数の改善などを求める。しかし、その足元では、一部の住民が日常的に不正乗車をしている」と云う箇所は何も、不正乗車をしている人だけに当てはまるものではありません。鉄道を使わずに車を乗り回している人たち全員に当てはまる事柄です。彼らにしても、自分たちが車を乗り回して鉄道の利用が減れば、どんな事態が待ち受けているのか、当然ながら知っているわけですから。そして、不正乗車をする人よりも車を乗り回している人の数の方が何十倍、何百倍と桁外れに多いのです。

 車を乗り回している人の中には、どうしても車を使わざるを得ない事情を抱えている人もいます。しかし多くの場合は、多少無理をすれば鉄道を使えないことは無いのに、過度の利便性の誘惑に流されて、楽をして暮らしているわけです。彼らは確かに表面上は不正を働いてはいません。しかしだからと云って、偉い立場なのでしょうか。誘惑に流され、楽をしている観点からは、不正を働いている人と同罪です。しかも不正を働いている人は一応、鉄道を使っている…つまり「帰依」をする前提条件は満たしているのですから、車を乗り回している人々は、「帰依」をする意思を全く持っていない点で、不正を働いている人よりも、悪質であるとさえ云えます。鉄道をそもそも利用していないわけですから、不正乗車を絶対にするはずがありません。それのどこが、相手に非難を浴びせるほどの「善」なのでしょうか。

おわりに

 このようにキリストの教え、その精神と云うのは、本質的に展開されるものです。目の前に展開された可視的な出来事…つまり姦通をしていたとか、不正乗車をしていたとか…そのことだけに目を奪われて糾弾しても始まらないだろう…そのような目に捉えられる位の「小悪」ではなく、背後にある目に捉えられないほどの「巨悪」の方にこそ、目を向けるべきなのである…これが「汝らのうち、罪なき者、まず石を投げうて」に於いても見られる物事の本質を重んじたキリストの態度なのです。「巨悪」に目を向け、これを是正しないことには世が良くならないことは云うまでもありません。そしてその「巨悪」とは端的に云って、自分は関係ない・自分は正しい or 悪くないと云う、人々の日常的意識の中に眠っているのです。


uploaded 2018.0701 by 山田系太楼どつとこむ
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