第4話「汝らのうち、罪なき者、まず石を投げうて」の精神とは
<後篇>
はじめに

 先に私たちは「汝らのうち、罪なき者、まず石を投げうて」と云うイエス・キリストの言葉に込められている精神性について検討をしてきました。
 
 第4話「汝らのうち、罪なき者、まず石を投げうて」の精神とは<前篇>

 今回はそこでは触れることのなかったこのエピソードに関する重要な事柄について述べていきたいと思います。

論理の作法に従うからこそ成り立つ議論

 私の手元に有る新共同訳聖書から問題のシーンを引用してみましょう。
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 イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(ヨハネ伝8章1-11節)
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 状況を整理しましょう。前提、と云っても良いかもしれません。ここに出てくる人たちは全員、ユダヤ教徒です。神に帰依していて、モーセの律法の下で生きている人たちです。少なくとも建前的には。そこでは人々が皆、「神の論理」に従って生きています。つまり人々の態度は基本的に論理を重んじる、論理的な人々なのです。

 キリストはなぜ、この罪を犯した女を救いだすことが出来たのでしょう。それはこの場に居合わせた…聖書の中では悪役となっている律法学者やファリサイ派の…人々が論理を重んじた状態にあり、徹頭徹尾、感情に支配されていないからこそ…と云うことに目を向けなければなりません。少なくともこの時の律法学者やファリサイ派は、キリストに「論破」されたことで(昨今は、この言葉も随分と安っぽく使われるようになりました。屁理屈を並べ立てて相手を呆れさせて黙らせただけで「論破した」と称する人が少なくありません)、形勢不利を悟り、潔く引き揚げたのです。つまり相手と論戦を交わす際の作法をきちんと心得ていたわけですね。この論理の作法が備わっていないことには、幾ら表面的には言語が通じ合ったところで、本質的にコミュニケーションが取れる状況にはなりません。

おわりに

 英語は世界の共通語となっていますが、それ以上に大事なことは、論理の作法を身に着けているかどうかです。感情的で自己中心的、主観の中に閉じ篭った態度であるのではなくて、論理性や客観性を重んじることで、相手と心を通わすことが可能になると同時に、世界に散らばり、そして覆い尽くしてもいる難しい諸問題に整理を付けて、解決への道筋を付けることにも繋がります。個人的感情に流されるのではなく、先ずは論理的思考を前面に据えることの大切さ、そして論理の共有の大切さを、聖書のこのエピソードは示しています。


uploaded 2018.0805 by 山田系太楼どつとこむ
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