第3話 目には目を、歯には歯を! 話はそれからだ
はじめに

 先日、AKBのメンバーが「韓国が好きな日本人は嫌い」と発言したと云うことで非難を浴びました。実際の発言内容のニュアンスは少し異なるようですが、しかし、韓国や韓国好きの人間に対する嫌悪感を増進させるような発言を有名アイドルグループに在籍する立場の人間が云うことは、甚だ不適当であると云うことなのでしょう。AKB運営からの指導が入ったと見えて直ぐに謝罪をしました。AKBに韓国人ファンは多くないと思われますが、同じく、日本との関係が芳しくない中国のファンは大勢います。人気低落に頭を悩ませているであろう運営としては、これが中国相手だったらと思うとゾッとしたのではないでしょうか。

 私もこの発言は問題だと感じました。この発言を、性質が悪いなと認識したのは、ロジック構造に決定的に辻褄が合っていない部分があるからです。その部分に留意するならば、こう云った問題発言は余り生じないことにも繋がるものとなるでしょう。

好き嫌い混在は相手への圧を強める

 「韓国が好きな日本人は嫌い」 この文章から見えることは、好きと嫌いと云う二種類の感情が入り交じっていることです。加えて最終結論は「嫌い」と云うネガティヴな感情になっています。このケースでは「韓国」と云うワードが入っていますから、どのみち、何を云ってもどこからか非難を浴びることにはなるのですが、しかし「韓国が好きな日本人は好き」或いは「韓国が嫌いな日本人は嫌い」とすれば、そこまでは…少なくとも内部に於いては問題視されることもなかったことでしょう。ここで分かることは、「好き-好き」「嫌い-嫌い」の組み合わせになると…「嫌い」と云うのはネガティヴな感情ですから「好き」よりもイメージは大分悪くはなるのですが…排他的或いは価値観押し付け的圧力が相当程度弱まっていることです。反対に、「韓国好きは嫌い」「韓国嫌いは好き」と云うように「好き-嫌い」「嫌い-好き」と云う組み合わせになると、自分の好み・価値観がより強調されると共に、他人の好み・価値観に介入するニュアンスが濃厚になるのです。




 その原因は、他者に対する攻撃性の濃淡に因るものだろうと思います。つまり「好き-好き」の場合は、「あなたは韓国が好き-私もそんなあなたが好き」、「嫌い-嫌い」の場合は、「あなたは韓国が嫌い-私もそんなあなたが嫌い」と云うように相手の態度同様の感情のリアクションが湧いています。ところが好き嫌い混在の状態になると「あなたが韓国のことが好きだから私はあなたのことが嫌い」「あなたが韓国のことが嫌いだから私はあなたのことが好き」と云うように、相手が持っている特定の好み・価値観に従って相手の評価をより直接的に定めているニュアンスが時と場合によってはかなり強烈なものとなり、異なる価値観を認めない排他的な色彩が強くなってしまうのです。

 もう少し掘り下げてみましょう。「嫌い-嫌い」の場合、あなたは誰かのことを or 何かを気に入らないからと云って嫌っているのだから、私もあなたのことが気に入らなくて嫌っても別に文句ないよね…と云うことになります。私に嫌われたくないのなら、あなたも誰かのことを or その何かを嫌うことを止めなさいよ、と云うことですね。それなりに筋が通っているわけです。ところが「好き-嫌い」の場合は、あなたが誰かのことを or 何かを気に入って愛好しているから、私はあなたのことが気に入らなくて嫌う…と云うことになりますから、愛好することを止めろと要求している形になります。また「嫌い-好き」の場合は、誰か or 何かを嫌うことを推奨している形になります。つまり返す刀で、嫌われたくないのなら愛好することを止めろと要求していることになるわけです。

 「好き-好き」の場合は、もちろん愛好していることを止めるように要求していることにはなりませんし、「嫌い-嫌い」の場合も、価値観変更を要求している要素はあるのですが、嫌うのを止めろと云っているだけで、この時点では愛好しろとは要求していないわけです。ところが「好き-嫌い」「嫌い-好き」の場合は、陰に陽に愛好することを止めろと要求しているわけで、相手に対する要求の度合いが一段階高いものとなっています。幾ら、嫌いになれと要求しているわけではないと云っても、愛好するのを止めると云うことは、生活を変えることになるわけですからね。例えば韓国コスメの愛好を止めろと云う話になったら、今後は別のコスメに変更することを余儀なくされます。しかし韓国コスメを嫌うのを止めろと云う話になったところで、今後、韓国コスメは選択肢の中に入ることにはなりますが、必ずしも愛好しなければならないことにはなりません。「別に嫌いなわけじゃないんだけど、やっぱり資生堂が一番なの」等々、適当に言い訳することも出来るわけです。つまり「嫌い」は、「これよりもあれの方がもっと好きだからそっちを選びたい」と云うように「別の愛好」によって覆い隠せる性質のものですが、「好き」は、何か別のものによって代替可能な性質のものではないのです。「これじゃなきゃダメなんだ!」と云うわけですね。

目には目を…! の精神

 以上のように、「好き-好き」「嫌い-嫌い」と云うように一致対応している時分の方が、「好き-嫌い」「嫌い-好き」と云ったような一致対応していない時分に比べて、相手に対する圧や攻撃性が抑制されていることを見てきました。この一致対応性と云うものを見る際に、思い起こされるのが有名なハンムラビ法典、或いは旧約聖書に記されている「目には目を、歯には歯を」と云う一文です。復讐心を認めるものであり、今日では一神教の欠点として挙げられることも多く、また同じ聖書でも新約聖書ではキリストによって…

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 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。(中略) あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ伝5章38-44節)
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 …と云うように否定されています。しかし実はとても重要な精神性が含まれている文言なのです。私たちは、先ずは、「目には目を、歯には歯を」の精神性を携えるべきであると云えます。

 この「目には目を、歯には歯を」で最も重要なことは、「目には目を、歯には歯を」であると云うことです。つまり「目には歯を、歯には目を」でも、「目には目と歯を、歯には歯と目を」でもないと云うことです。或いは「目には鼻を、歯には耳を」でもありません。「目には目を、歯には歯を」と云うように完全に一致対応しています。ここが肝なのです。

 要は仕返しを推奨しているのではなく寧ろ制限している条項になるのです…「目には目を、歯には歯を」は。それ相応の、応分の仕返ししかしてはいけませんよ、と云うことです。この考えを発展させると、何らかの感情や価値判断を示す際には、その基準となる相手の姿勢の正負の向きに沿ったものを下すのならセーフになる…即ち、間違いが起こる確率は相当程度減ることになるだろう、と云うことになります。つまり「正には正を、負には負を」と云うことですね。要は、良いと思っているものに文句を付けるな、と云うことです。

 良いと思っているものに文句を付けられると、悪いと思っているものに文句を付けられること以上に、自己否定されたと人は感じてしまうものです。したがって、トラブルをなるべく回避して、順調に過ごしたいと云うことであれば、極力、この「正には正を、負には負を」と云う原則を用いて、愛好している物事を否定しないことが肝要となります。それがまた寛容性であるのだとも解釈されてきました。

目には目を…! を超越する

 しかし私たちはこの社会をより良くする使命を帯びて生きています。より良い人生を歩む責任を帯びて生きています。「目には目を」の精神に則り、愛好している物事を否定しないでやり過ごすことは、共同体の中で快適に過ごすことを重んじる部分からは推奨される行動形態です。が、しかし、それで社会状況が改善されることは余りありません。あらゆる価値観を受け容れていては、にっちもさっちも行かなくなります。あるものを好むことが別のものを好む行為を圧迫させるケースも起こります。

 したがって「目には目を」は、ベターではありますが、ベストではありません。根本的且つ最終的解決は、自分の愛好している物事を他人から否定されても、自己否定されたとは感じないこと…自分の愛好していない物事を他人が愛好していても、疎ましく思わないこと…でしょう。簡単に相手をとても好きになったり、とても嫌いになったりすることも良くないことです。そこでキリストの名文句をもう一度参照しましょう。

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 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。(中略) あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ伝5章38-44節)
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 そもそも「目には目を、歯には歯を」が一般的に否定的に捉えられてきたのは、この考えが復讐心を肯定的に捉えているからです。復讐によって、自分の満たされぬ心の埋め合わせを行うわけです。現代の問題としてこれと似たものに「承認欲求」と云うものがあります。自分の愛好する物が世間的には嫌われている、或いは自分としては嫌いな物が世間的に好まれる状況が広まっている光景が面白くなく感じるのは、自分が世の中から正当な評価を受けていないと云う承認欲求への渇望や、他人を自分の下に置きたい、或いは自己意識通りに振舞わせたい支配欲求に囚われているからでもあります。どちらにしても、自分の満たされぬ心の埋め合わせを、他人を使って行っているわけです。つまりこれは他人依存の状態であるわけです。



 それゆえに、満たされない心を、他人の状況に左右されずに埋め合わせられるなら万事は解決する方向へと動き出します。そのためには先ず神に依存することです。神と一対一に向かい合った関係性を築くことで、他人の状況に左右されなくなります。つまり、「個」が確立されます。そして神の目線によって、物事への判断を下すことが重要です。しかし神が第一なのですから、世の中の出来事は全て二番目以下に大事なことになります。そうすると心に余裕が出てきます。世評の結果に自分のアイデンティティが根本的に左右するような大事にはなりません。あれにはこのような良い面があるが、しかし、これにもこのような良い面があるものだなと感じられるようになります。

 …そうです、これが「右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」であり、この後に続く「下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」と云う名文句の、一つの精神であります。つまり、ある価値観を問題にするような排外的状況の場合、「目には目を、歯には歯を」の範囲内に、その方向性に一致させる…その上で「目だけでなく、歯も悪くないものだ…目でも歯でも別にどちらでも良いだろう…目も歯もどちらも良いものだ」と云うように変化し、最終的には好き嫌いと云う感情を超越する方向へと成長することが出来れば良いわけです。

 しかしながら神を第一にすることは、「神の敵」に対する復讐心を喚起することにも繋がりかねません。そこで例の「敵を愛せ、迫害者のために祈れ」と云う名文句の出番となるわけです。このことは何も神に対してのみ当てはまるものではありません。先程来述べている世の価値観に自分の愛好するものが符合していない際にも用いることが出来ます。つまり、このことがとても良いこと・素晴らしいこと(或いは、良くないこと・素晴らしくないこと)であることを自分が知り得ていることに感謝すると共に、未だ知り得ていない人に対して、憐れみの心を持ち、一人でも多くの人にその素晴らしさ(或いは、素晴らしくないさま)を感じ取って欲しいと祈るのです。要は上から目線によって他者から評価が得られないことによって生ずる満たされない心を補い、不満を維持したまま相手に対して何らかの攻撃を加えないようにするわけです。まぁ、これも一つの知恵…ですね。「上から目線」は、決して悪いことではありません。

おわりに

 私たちは別に世の中の全ての出来事を受け容れて、それらに対して賛意を示したり、賛同したりする必要はありません。悪いものは悪いと云っても構いません。しかしそれは己の満たされない感情に憎悪のガスを注入するものであってはなりません。感情を抜いて、憎しみによらず、好き嫌いに基づかず、理路整然と述べなければなりません。

 世の中には、人には、進歩の順序と云うものがあります。たまに飛び級する人もいますが、基本的にはこの順序に従って成長を遂げるものです。あなたは先ず、「目には目を、歯には歯を」の精神を守らなければなりません。これが自分の邪悪な感情を抑制し、心に秩序をもたらす第一の段階です。その上で神によって…キリストの言葉によって強くしてもらい、満たされぬ心とは決別して、神の視座を得、俯瞰的に物事を眺め、好き嫌いで判断を下さない人間へと成長を遂げるのです。

 段階を踏むことで、人はより高い所へと近づくことが出来ます。新約聖書があるのだから、旧約聖書など必要ないだろうと思う人がいます。しかし今回話した事柄でも分かるように、旧約があって新約があるのです。いきなり新約で述べられたキリストの理想に近づくことなど出来やしません。私たちは旧約に接しながら、人の性と云うものを嫌と云うほどに感じ取るのです。その、まるで救いようのない性を目の当たりにして新約に臨むと、キリストの存在が、キリストの教えが、より肉感的に迫ってくる感覚に囚われるのです。

 段階を踏むと云うことは神自身が行っても来ました。大昔、離婚は普通に無制限に行われていました。また相手のことが気に入ったなら、誰の妻であっても構わず奪い取ったり、或いは「共有」していました。そこでモーセを通じて示された律法により、離縁状を渡せば離婚することが出来るようになりました。また、他人の妻を盗み取るような行為は禁じられました。要は「目には目を、歯には歯を」と云う秩序のもたらされた状況に落ち着かせたわけです。そしてキリストの時代になって、「いきなり離婚は一切ダメだと云われたら君たちはお手上げになるだろうから、離縁状を渡せば良いことにしたけれど、離婚は本来的に姦淫の罪に該当することだから、これからは離婚してはダメだよ」と云う話になったのです。





 そんなわけで先ずは、「目には目を、歯には歯を」の精神を自分の中に根付かせることが、大事になってくるのです。もちろん、その先のキリストの精神を見据えて励むことが重要なのは、云うまでもありませんが。

クロストーク天 表紙
uploaded 2018.0302 by 山田系太楼どつとこむ
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