第2話 自分の物差しを持つと云うこと
はじめに

 J-POPの歌詞の世界などでも見受けられますね…「自分の物差しを持とう」「自分の物差しで見よう」と。それでは、そもそも、自分の物差しとは何か、と云うことになるわけです。全ての権威や秩序を否定して、自己中心的に、自分勝手に生きること…なのでしょうか。しばしばこの「自分の物差し」とやらを強調する人にありがちなことではありますが。

 しかし確かに、自分の物差しを持って生きることは…自分の物差しによって生きることは、大事なことなのです。ところが上述のような大いなる誤解と云うものが蔓延っており、それが結局のところ、「自分の物差し」を携えずにいる元凶となっているのです。

物差しに求められることとは何か

 ところで物差しに求められる資質とは何でしょうか。丈夫である、折れにくい、或いは、しなやかに曲がる、目盛りが見やすい…その他、色々とあるでしょう。しかし一つ、重要なことがあります。目盛りが正確であると云うことです。メートル法であれ、ヤード・ポンド法であれ、目盛りがきちんと正確に記されていなければ、物差しとしては成り立ちません。

 つまり不変性と普遍性が物差しを構成する最大要件となるわけです。それは客観性の確保と云う表現でも代替され得るでしょう。主観的、つまり思い込みでは、いけないわけです。それは当然のことですね。フリーハンドで測定するのと同じことになってしまい、それではそもそも物差しの必要性など無くなってしまいます。ところがこの単純明快なことがなかなか理解されていないのです。

自分の物差しか、自分が物差しか

 自分の物差しを持つと云うことは、以上のように何らかの不変性・普遍性を帯びた基準となるものを、自己の外に携えていると云うことを意味します。ところが…お気づきの方もいることと思いますが…自分の物差しを持つことを勧める人、現に持っていると思い込んでいる人の多くが実は、自分が物差しになってしまっているのです。

 自分の物差しを持つ・自分が物差しになる…一見似ているようですが、中身は全く異なる関係性です。自分の中の価値判断・価値基準に従って物事を評価する行為は、自分が物差しになっているのであって、自分の物差しを持っていることにはなりません。それは他者から検証可能な不変性と普遍性を備えたものが存在しないからです。当然ながら物差しは可視化されている道具です。目に見えない物差しなど、有り得ません。物差しと云うのはこれがどの位の長さなのか測るためにあるものですから、目に見えなければ意味が無いわけです。したがって、「私の物差しはこれなんですよ」と提示することの出来るものでなければなりません。しかし自分の物差しを持っていると称する人の内、一体どれだけの人が「これが私の物差しです」と云って見せられるでしょうか。

 物差しで長さを測る時のことを思い出してみてください。物差しと自分の目の間に全く距離を取らずに密着した場合、長さを測ることが出来るでしょうか。

 物体を正確に捉えるためには、当該物体と人の目との間に、距離が必要となります。ある程度、目から離す必要があるわけです。つまり、自分の物差しを持つと云うことは、自分と物差しとの間に距離があること、物差しが自分から独立した存在であることが前提となるのです。それゆえに、自分の中の常識に基づいて判断を下すことは、自分の物差しを持っていることにならないのです。そして物差しと目との間に距離を取らないことには、当該物体の概容も、物差しの目盛りも読み取れないように、自分が物差しになって断を下している人と云うのは、物事を正確に捉えることがそもそも出来ていないわけですから、非常に視野の狭い、一面的、表層的な物の見方しか出来ていないことになるのです。





聖書、世界で最も精緻な物差し

 さて、他者でも参照可能な可視化された自分の物差しとは何か…そう云うことになれば、やはりそれは書物を措いて他にありません。それでは不変性と普遍性とを兼ね備えて、尚且つ、比較的平易に読み込むことが可能で、広く世界に普及しているものは何か。世界に秩序と知恵を提供してきたものは何か…そのように考えると聖書が最も適任であることになります。

 そもそも近代世界と云うものが、キリスト教的な思考・価値観が基盤になって構築されている代物ですから(「個」「自由」「人権」「更生」等々)、聖書を自分の物差しとすることに何の不足もありません。ところが現代日本人は、聖書と聞くと毛嫌いするわけです。宗教など要らないと云わんばかりに。昔の日本人インテリは教養の一環として、哲学の一種として聖書を嗜んだものですが、今ではそんな人も殆ど居なくなってしまいました。しかしそのせいで「近代」と云うものを理解することが出来ないでいます。「近代」を理解することが出来ていない以上、「脱近代」の意味をも理解することが出来ません。世界に通じる物の見方を知り、理解することもありません。もちろん、神や宗教の重要性を理解することも出来ません。自分にとって必要が無いものだから世界にとっても必要性や重要性の無いものなのだろう…まさにこの思考法こそ、自分が物差しになっている状態だと云えます。

物差しを自分のものにすると云うこと

 ところで皆さんの中には、聖書に記されている通りに価値判断を下して行動することのどこが自分の物差しを持っていることになるのか、疑問に感じる人も少なくないでしょう。それは単に、他人の物差しを使わせて貰っているだけなのではないか、と。

 しかしメートル法であれ、ヤード・ポンド法であれ、その目盛りは定められたものであり、自分勝手に決めることなど出来ないものです。つまり物差しと云うものは元々、他者から与えられるものなのです。ゆえに自分の物差しを持つと云うことは、与えられた物差しをスムーズに使いこなせるようにして、自分のものにすることを意味しているわけです。要は、物差し自体は他者の作だが、それを縦横無尽に使いこなせる能力を獲得することによって、自分のものにする…と云うことですね。ここでの「自分のもの」とは、自分で創作したかどうかの話ではなく、身に着けた能力の話と云うことです。

 聖書には、こう云う時にはこうしなさいと全てが事細かに記されているわけではありません。その心は何か、真意は何か、時に行間を埋め合わせながら、読み込む必要もあります。このことは全ての事例に当てはめて良いものなのか、それとも特定の場面に特化したものなのか…そう云ったことを考えなくてはなりません。したがってその解釈には、頭を使うことになるのです。いわば、この物差しはメートル法に基づくものかヤード・ポンド法に基づくものか…「東京-旭川576」と来れば、これはキロメートルではなくマイルだなと感じ取れるか…センスが問われます。ですから十分に、自分の物差しを持っている状態になるわけです。そしてこれを使いこなすためには、それなりのトレーニングが必要になります。野球で新たな球種が投げられるようになることとその点で、違いはありません。

おわりに

 日本では「世間の常識」と云うものが物差しとして重んじられてきました。しかしこれは物差しとして有効に機能し得る代物なのでしょうか。私は、全くそうは思いません。まず常識と云うものは、可視化されているものでしょうか。違いますね。参照不能なものです。常識は、不変性と普遍性を兼ね備えているでしょうか。これも違います。親の代と子の代・孫の代で常識は異なってきます。常識は変化します。常識は、英語でcommon senseと云いますが、直訳するなら「共通感覚」です。尤も日本で云うところの「常識」は往々にして、commonly knownのことを指す言葉ではありますが。いずれにせよ、そこに共通性があると云うことです。では共通性とは何か…それは多数意見と云うことになるわけです。つまり常識とは、個人の主観の集まりとして多少の客観性を獲得しているものではあるけれども、それは個人の意識の変化によって、絶えず揺れ動いているものであり、時の経過と共に大きく変化するもの…と云うことになります。更には世代間だけでなく、地域間によっても大きく変わってきます。



 しかし西暦やメートル法が殆ど世界中に普及しているように…一般人には馴染みが薄くとも、支配層やインテリ連中は知っているように…近代と云うものが現在進行形の存在として、現下の世界を司っている以上、更には二千年と云う長きに亘る歴史を刻んできた伝統的書物である以上、聖書は、単なる宗教の枠を超えて用いられている物差しです。キリスト教云々に関係なく私たちが、西暦ことキリスト紀元を使用しているように。

 聖書は智の共通語です。確かに、英語だけ話せるようになっても意味がありません。智の共通語を獲得しないことには、ロゴスに達するような深い交わりなど出来やしないからです。

クロストーク天 表紙
uploaded 2018.0222 by 山田系太楼どつとこむ
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