第1話 著作権的思考法の勧め
はじめに

 あらゆる物事は、統一と融合、並びに分断と分割によって成り立っています。別離があれば、合体もあります。独りが寂しい夜もあれば、独りで過ごしたい夜もあります。状況に合わせて変わることが良い場合もあれば、ぶれずに頑として佇むことが良い場合もあります。

 人生は難しく、世界は複雑です。別に複雑怪奇なのは、欧州情勢だけではありません。さて、ここで問題なのは、一体化されるべきものと分離させるものをどう見分けるかであり、それは別の角度から眺めれば、変えない部分と変えるべき部分とをどう見分けるのかと云うことでもあります。そこで私は「著作権的思考法」と云うものをお勧めします。

著作権保護と云う概念の構造

 著作権とは著作物を保護し、以て当該著作物の著作者を経済面或いは思想面の観点から保護するための概念ですが、それでは著作物とは何かと云う話になるわけです。これは、創作的であるかどうかが、その判断基準となります。「創作的」と云われると何かとてつもなく壮大な芸術作品のようにも想像されるところですが、別にそんな必要は無くて、例えば取り留めのない手紙であっても創作的であると認められます。

 しかしながら原則として著作権は「表現」を保護するものであり、その基となった「アイディア」を保護するものではありません。ここが肝であります。例えば誰かが田んぼの絵を描いたとしましょう。これは著作物になり、保護対象となります。しかしながらそれを鑑賞した別の画家が触発されて田んぼの絵を描いた際に、「最初に田んぼの絵を描いたのは私だ。お前、真似するんじゃねぇ」と云って訴訟を提起され、著作権侵害であると認められたとしたらどうなるでしょうか。今後、少なくとも半世紀以上に亘って世界で田んぼを描いた絵がたった1枚しか存在しないことになるのです。つまりは、思い付いた者の早い者勝ちと云うことになるわけです。

 これが自然科学上の発見等であれば、真実は一つしかないのですから、早い者勝ちでも良いでしょう。しかし例えば芸術の分野に正解が一つしか存在しないものはあるでしょうか。田んぼの絵を描け、と云われても、色々な田んぼが世界には存在しています。また同じ場所の田んぼを題材に取ったとしても、人によって絵のタッチは異なります。田んぼの絵を描くと云う一つのアイディアの表現の仕方には、沢山の種類が存在しているわけです。つまり正解は、一つではないのです。したがって、科学分野とは異なり、芸術と云うものは、正解を独占させずに多種多様な方が…互いに創作を刺激し合った方が…進化/深化を遂げることとなり、それは当の芸術家同士はもちろん、社会一般にとっても利益になると解釈することが出来るのです。ゆえに、田んぼの絵を描くと云うアイディアは保護対象とせず、アイディアに基づいて描かれたそれぞれの具体的表現について、保護の対象にしましょう…と云うことになったわけです。



変わる表現、変わらぬアイディア

 このようにして、物事の根幹を構成するアイディアについては何人たりとも使える共有財産とし、枝葉を構成する個々の表現について保護しようと云う話になりました。

 田んぼの絵を描くと云うアイディアは、不朽普遍性の高いものです。それはいつまでも変わることなく、絶えるものでもありません。この世から田んぼが消えて無くなったとしても、古を思い起こして、田んぼの絵を描く人が現れることでしょう。しかし具体的にどのような田んぼの絵を描くかと云う部分に関しては、人によって、或いは時代や地域によって絶えず変化するものとなります。木々をご覧になって下さい。根や幹の変化は四季の移ろいによっても余り認識されません。

 しかし枝葉の様子は、大きく変化を遂げます。物事の根幹、即ち本質的な部分は、時代が異なってもさほど変わらず、しかし枝葉の部分、即ち具体的対処法に関しては、その時代の状況や現場環境に応じたものが必要となってきます。つまりアイディアは幾つもの時代を経ても、或いは地域や環境が異なっても変わらずに、しかし表現は、時代や地域や環境の実情に合わせて変わる性質の、否、寧ろ積極的に変えるべき性質のものなのです。



ブレずに、変わる

 昨今、矢鱈と「ブレない人」が持て囃されているように感じられます。ブレないことが、まるで正義のように語られ、それだけで人の評価を決定付けているようにさえ思います。確かに日和見的に、風見鶏のように、ころころと立場を変えられてはたまったものではありません。何を信用して良いのやら、分からなくなってしまいます。

 しかし最終的な結果に過ぎないはずのブレない姿勢が目的化してしまい、飽くまでも間違いを認めずに、或いは変化を受け容れずに、無理矢理にブレない姿勢を固守している人たちも少なからず見受けられます。彼らは自分自身が「ブレない」だけでなく、間違いを正した、或いは変化に対応した人に対しても「ブレた人間」とラべリングを行い、攻撃の対象とするのですから至極厄介です。彼らに攻撃されることを恐れて、「ブレない」ようにしている人も、少なからず存在することでしょう。しかしそれでは組織や集団内部の腐敗と衰退がどんどん進むこととなり、やがては社会全般が活力を失って、存続の危機に立たされることにもなりかねません。現に、面倒な懸案は次々に先送りになったり、そもそも最初から見えないふりをしたりで、社会は窒息状態に陥っています。冷戦以降、世界は大いに変わりましたが、日本は化石のように世界的潮流から取り残されています。人々の思考が冷戦末期から殆ど変わっていません。「ガラパゴス化」は日本の代名詞になってしまいました。

 そんな時分に、そんな時節に、この著作権の構造…アイディアと表現の関係性について思い起こしていただきたいのです。根本を司るアイディアは不変です。しかしそのアイディアを実現させるための方法、即ち表現は、変幻自在・多種多様です。アイディアをしっかり根幹的、機軸的に携えていれば、あとは変化を恐れないことです。根幹、機軸がしっかりとはっきりとしていれば、自然とそこに一貫性が生じ、その一貫性の舞台上で表現が踊るようになります。それではその一貫性の基となるアイディアとは何か…それは後ほど、このコンテンツの中で幾らでも見ることになるでしょう。

おわりに

 政治家の中でケ小平の言葉が一番好きです。「黒い猫でも白い猫でも、鼠を取る猫が良い猫だ」…これぞ表現の変化を恐れないことを最も如実に語っている言葉でしょう。国富を増大させ、国民生活を豊かにするためには(→アイディア)、それが資本主義的であっても適宜、最も有効な手段を採る(→表現)。このケ小平の確固たる政治哲学のお蔭で、毛沢東の下で疲弊した「新中国」は、名実ともに新しい中国へと発展を遂げました。



 政治にしても経済にしても、宗教ではありません。正しければそれで良いと云うわけではないのです。教条的に理想を追い求めるのではなく、現実生活を如何に豊かなものとするか、その部分に立脚して策を講じなければなりません。その志さえ強固なものであれば…しっかりとした哲学に基づくものならば、ブレることを恐れずに、寧ろ変幻自在にして縦横無尽に動き回るべきなのです。


クロストーク天 表紙
uploaded 2018.0214 by 山田系太楼どつとこむ
©山田系太楼 Yamada*K*taro