中山実生プロフィール

子どもの権利活動家。立教大学社会学部卒。
南インドのバンガロールを拠点に、インドの児童労働、スト

リートチルドレン、子ども買春、子どものエンパワーメントに焦点を当てて取材活動
をおこなっている。その他、フォトエキシビション「働く子どもの『遺産と伝説』
キャンペーン」のコーディネーターを務める。子どもたちにカメラを渡して、彼らの
アングルで世界を撮るプロジェクト。詳しくは、「働く子どもの『遺産と伝説』キャ
ンペーン」実行委員会事務局、olaljp@yahoo.co.jpへお問い合わせください。

連絡先;

#369, 2nd Cross, 7th Block West, Jayanagar, Bangalore 560082 INDIA

TEL: +91-80-6763905  E-mail : mioi@tkg.att.ne.jp
























きっかけはトルコ訪問

「私が何故この仕事を始めたのか・・・それは遡って、大学の3年の時にドイツに留学してたんですよ。それでトルコ人移民問題をやってて、それでまぁトルコ人との接触があって、トルコは凄いいい国だって友達から言われてて、「行きな、行きな」って言われてたんです。それでトルコ行ったんですね。そしたら、初めて自分の目でストリートチルドレンっていう子どもたちに出会ったんです。そういう問題があるとか児童労働があるっていうのは知ってて、興味はあったんですけど、目で見るっていうのは違うし、触れるっていうことですね・・・視覚的に見るし、フィーリングっていうのが出てくる。イスタンブールで出会ったふたりの姉妹が仲良くなってある日、レストランに行ったんです。で、ケバブっていう彼らにとって一番いいご飯を奢って、その代わりに彼らに、どういう生活をしてるのかってことを訊こうと思って、ご飯に誘ったんです。そしたら、ご飯食べてるときとかも色々話してくれて、プラス、とても嬉しそうにしてたその顔とかが印象的で、私自身も凄く満足感があったんですよ、ご飯を食べてるときに。それで、レストランを出た瞬間に「ああ、私はこの彼らを労働現場から引き抜くことはできないんだな」っていう実感があったんですよ。半分それが、“helpless”っていうどうしようもない気持ち。それからもう半分で、やっぱりこの子どもたちのために何かをやりたいっていう、もうビビっと来たというか、まさにこれが私のライフワークだっていうふうに大学3年の秋に思いました・・・まぁ、あのとき大学4年だったかな」


2002年インドへ

「それで立教に帰ってきて、それからは
NGOで働いたんです。で、「国際子ども権利センター」っていうNGOがあって、そこで特に児童労働を中心にやってた・・・児童労働とその子どもの権利、それから子どもたちが社会に参画していく子どもの参画という意味での活動をやっているNGOに出会ったんです。それで私はそこに没頭しだしたわけです。そのNGOがインドにコネクションを持っていたので、インドに行ったんです。大学卒業して半年も経ってないぐらいですけど、そのNGOで働いて、それから現地に行ったんですよ。それが2002年の9月。要はですね、色々本で読んだりとか、はっきり言って、児童労働・・・ChildLaborers・・・働いてる子どもっていうのと、路上で暮らす子どもたちの違いさえも、私は日本にいてわからなかったし、よく訊かれるんですよ、帰ってきてそれで「何が違うんですか?」っていう本当に日本にいたらわからないその違いっていうのが(当時は)わからなかったし、それから、とにかく何で自分の家と学校が凄く遠いから学校辞めてしまったというコメントが書いてあって、その意味が全然わからなかった・・・行くまでは。何でそれが学校を辞めるきっかけになるのかとか、単純なことが本で読んでもわからなかったので、行くことにしたっていうのと・・・もうひとつは、ちょっと大学院に行って、国連に行って・・・ってとか、ちょっとエリートコースを行こうかなとも思ってたんです(笑い)。そしたらたまたま大学4年のときにニューヨークであった国連の会議に参加してて、それでその傍ら、コロンビア大学にちらっと行って、アドミニストレーションの人にここで勉強したいって言ったら、「あんたは早すぎる」って言われて(笑い)、「4年ぐらいは途上国に行って経験を積んできなさい」って言われて、それで途上国に行く決心が付いたと。で、「2930になって大学院に来ても全然遅くない。そんな人ばっかりだから」って言われて、それでまぁ(インドへ)来るきっかけにもなったんです。来てみると・・・まぁ、私が今やっている仕事が何かっていうのをお話しすると、半分はジャーナリスティック、もう半分はアーティスティック。で、ジャーナリスティックっていうのは、子どもの労働、それからストリートチルドレン、それから子ども買春、子どものエンパワーメントっていうのをテーマに、どういう実情でどういう社会復帰の方法があって、どう政府がそれに対して取り組んでて、どう市民の人が考えてるかっていうことを取材する活動ですね。それからそれを、日本の新聞と雑誌に送っている仕事をやっているのと、もう一方は・・・アーティスティックな部分はインドに来てから始めたんですけども、まぁ、出会いがあったんですよ・・・」


アーティスト ジョン・デバラジとの出会い

「芸術家でジョン・デバラジっていう人がいるんですね。その人が過去
20年、児童労働っていうのをテーマに・・・子どもっていうのをテーマに、芸術活動を通して子どもたちをエンパワーしつつ、子どもたちの参加を採り入れていく・・・そういう活動をやっている芸術家に出会ったんですよ。それから何故、今、私が写真を撮ってるか、何故、詩を書いているかっていうのは全部、彼の影響があるんですね。私の人生はまたある意味、彼によってだいぶ変わってきたと思うんですよ。で、まぁ、ジャーナリスティックなほうはそのままで、アーティスティックなほうは何故かっていうことなんですけども、今のバンガロールの現状は8万とも10万とも30万とも働く子どもたちがいると言われてるんですね。その数は全然はっきりしてなくて、その調査はされていません。で、国レベルでの中央政府による統計っていうのは1990年前半で出て以来、出ていないんですね。つまり10年以上出てない。で、州レベルでの調査は1回もされていない」


バンガロール繁栄の陰で

「で、私が住んでいるのはバンガロールっていう南インドの、しかも今最もインドで発展している、最新の技術が入ってくる都市なんですよ。つまり、都市化が進んでいる・・・人口が増えている。今は
700万人以上、バンガロールにいて。で、何が起こっているかっていうと発展と共に、人口が増えていくっていうことは、人口が増えて、しかも中間層がこの5年から10年の間に増えているんですね、インドは。だからクルマを買うことが出来る、バイクを買うことが出来る。それによって交通渋滞が増えるんです。そのために道路を拡大して、拡大する=並木を切っていくんですね。で、環境破壊が起こっている。それに対して今、市民運動が・・・反対運動をしている。そういった状況なんです。で、最も発展してるからということで北から、それから隣のタミール・ナドゥっていう州から・・・それからケララ、アンドラ・・・周りの、南インドの州から労働者がどんどんどんどん毎日来る。バンガロールは毎日100人の子どもたちが、65人は電車で、30人はバスで、残りは歩いて、来るっていうふうに言われているんですよ。それぐらい毎日のように子どもたちがどこかしら流れてくる」


自殺現象

「それは何故かっていうと、まず村に・・・大体、移住してくる人たちっていうのは、村に仕事がない、水がない、食べ物がない。本当にその言葉どおりで「ない尽くし」ですね。洪水があって何にもできない・・・それから干ばつもある。そういった自然災害がひとつ。それからグローバル化の影響をインドの農民は受けているんです。
1993年にインド政府は市場を拡大したんですね、自由経済を導入して。それ以来、インドの市場がほかの外国の市場・・・特に中国との競り争いがあってそれに勝てない状況になってるんです。例えば今までは農民たちは伝統農法をやっていたけれども、化学肥料が外から入ってきて、それを使って農業を始めるようになったんですね。だけども、その化学肥料のお金がどんどんどんどん上がっているので、農民たちはそれを買えない、賄えない。とにかくグローバル経済が直接、農民たちに影響を与えてる。で、それイコールどういうことかというと、インドは80%が農民人口ですから、農村経済に重点を置かなければいけないんですね。だけども、政府は農村経済にお金を投資していない。都市化の発展にお金を投資しているのが現状です。農民の親は、ひとつは私が住んでいるところでは自殺現象が起こっている。つまり自殺をすれば、今のこの苦しみから逃れることができる。二点目は自殺をすれば、10万ルピー・・・約256万ですけども、お金が入ってくるんですね、家族救済金みたいのが。カルナタカ州政府が出すっていうような発表をしてて、それが逆効果で、自殺をすればお金が入ってくるから、自分の子どもをせめてでも助けることができるっていう。それで自殺現象が起こっているんです。プラス、農村で食っていけないから、とにかく親の仲が悪くて子どもたちが・・・お父さんがとにかく飲んでいる。だから稼いだお金は教育に使われるんじゃなくて、お酒に使われていく。そんなお父さん見ていたくないというんで、逃げていく。家族ごと移住してくるとか、お父さんとお母さんの仲が悪くて、即行で逃げていくとか、いろんな要素があって、家から飛び出していく」


蝕まれる子どもたち

「そうした農村にいる、しかも低階層の一番下の子どもたちダリットと言われてますけど、アンタッチャブル、不可触民と言われている・・・そういった子どもたちが村から都市に流れていく現象が起こってるんです。そういった子どもたちはホテルって言われている、いわゆるレストランで皿洗いとかをする、掃除をする仕事とか、バイクを修理する仕事とか、女の子だったら性的搾取の犠牲になるとか。すぐ買春の罠にはまってしまう。仲介業者がいるんですよ、駅とかに。そういった子どもたちが電車で来たならば、そこで捕まって・・・捕まるというか、うまい声を掛けられて・・・右も左もわからないから、「泊まるところがあるよ」って言われれば、そのまま付いていってしまう。こういうような状況で子どもたちは児童労働者、あるいはストリートチルドレンになっていく。で、働いている子どもたちが、その働いているところから逃げて、ストリートチルドレンになっていく場合がある。ストリートチルドレンの生活はさらに悲惨で、食べるものがないんですよね。だから空腹を忘れるために修正液・・・ソリューションって言ってるんですけど、修正液を吸って、一日を過ごす。その一本は・・・今持ってるんですけど
(修正液を見せる)、これは実際に子どもたちから集めたもので、昔の日本で使ってた筆付きの修正液でこれが50円くらい。それで、これをこういった布に染み込ませて吸うんですね。最後は液が出なくなるので、このボトルをこういうふうにくるんで石でガンと割って、最後の液まで吸う、と。これを吸うということは一本が、750mlのビールの8本分のアルコールの強さに匹敵するんです。ということは、頭が壊れてしまう。それでこれを吸うってことはハイになりますよね・・・ハイになって、手を切る。リストカット。で、リストカットをして、ま、いろんな理由でリストカット・・・悲しいから切るとか、とにかくわけがわからず切るとか、ハイになって血が見たいから切るとか。大体10本、20本っていうふうにあるんですね。私の詩の中に「ライン・バイ・ライン」・・・「ライン」って日本語で訳したんですけど、その中に書いています。そういった心に傷を持っている・・・社会から本当に拒否されているのがストリートチルドレンだと思うんですよね。どこに行っても、怪我をしても受け入れてくれる病院がない。それは汚いから。綺麗だったら病院に行くことができるけども、見ただけでストリートチルドレンってわかるので拒否をされるんです。一回、ストリートチルドレン連れていったら、凄い変な顔されて、断られたりとか・・・あるんですよ。例えば医者がブラーミンとか一番階層の上の人だったりとかしたら、結構公けに断ってきたりとか、社会差別があったりとかして。そういったストリートチルドレンがいて、やっぱりドラッグだけじゃなくて、性的搾取の犠牲になっていて、大人からレイプされる・・・男の子でもレイプされる場合と、それから子どもたち同士でちょっと年上の男の子がセックスというのを教えていて、強要する場合。ですから、レイプがどんどん蔓延しているということですね。それからインドは村に行けば・・・特にカルナタカ州では、債務奴隷者がいて・・・例えばお父さんがお姉さんの結婚資金に何十万ルピー借りたから、それを自分の息子・・・弟の労働によって借金を返していくっていう子どもたちとか、それからお父さんが5000ルピーで売って・・・キャッシュが入る、お父さんの手には・・・それで子どもは他人の家で牛の世話とかをする、と。それで一日中、働かされていて、食べるものも他人が残したものとか。あとはどういうところで働いているかっていうと、都市の児童労働では、建設現場で働いている子どもたちとか、ホテルでしょ・・・それからマーケットで何かを売っているとか、路上で何か・・・たいしたものじゃない、例えば綿棒とか何でもいいんです・・・売っている。それから農村に行けば、児童労働の80%は農村ですから、債務奴隷とか、農村に学校へ行ってないで何か仕事をしている・・・家にいるとか・・・そういうね、児童労働があるんです。あとは最悪の形態と言われている、鉱山で働いているとか、石切り現場で働いている子どもたち。それからダイヤモンドを磨く仕事をしている子どもたち。それから、お菓子・・・“puffed rice”って向こうで言うんですけど、米菓子? あれを作ってるのに、前あったのが、普通に薪を焚いて蒸すとお金がかかるから、タイヤを使って蒸すんですよ。そうするとタイヤの臭いっていうのは・・・焼ける臭いっていうのは凄い有毒で、有毒ガスが発生してるのでそれが子どもたちに悪い、と。それについて「ノーモア・アリ」っていう(自作の)詩があるんですけど、アリっていう子どもが死んだんですよ、工場で。それに対して、カルナタカ州の労働省が緊急措置を取るっていうので来たんですね、その工場に。そしたら、要は機械が悪いから・・・機械が近代化されていないから良くないんだっていう結論に達したみたいで、「もしこの機械を購入すれば5000ルピー、政府から出ます」っていうふうな条件を労働省の大臣が出したんです。私が詩で言いたかったのは、アリの死っていうのは、その5000ルピーの代価によって子どもたちの労働は変われたんだっていうことをその詩の中で言ってるんですけど、結局、凄く表面的な対処が今、されてると思うんです」


子どもたちをエンパワーしない限り、問題は解決しない

「ま、現状は大体そんな感じで、じゃあ実際に何が起こってるのかっていうと、バンガロールは
NGOのメッカと言われていて、大体3000ぐらいある・・・一応ね。で、子どもたちに関しては大体30ぐらい、大きいのがある。NGOの数は増えるのに、そういった子どもたちの数もどんどん増えていく。ということは、NGOは一体何をやってるんだっていうのが、尤もな、私たちが持っている疑問なんです。つまり今までは、衣食住を与える・・・そういったベイシックニーズを与えたところで、それはストリートチルドレンが社会に帰っていくきっかけには絶対ならない。どんなにそこに美味しい食べ物があっても、どんなにシャワーが浴びれても、彼らは路上が自由なので路上に帰っていくんです。で、NGO2年いて初めて「あ、もう路上に戻らないかな」っていうちょっとした不安が生まれるって、現地のNGOワーカーが言ってた。つまりそれは、いつ帰ってもおかしくない。一年いても絶対、帰る可能性はあるんです。それだけ路上は自由である、と。今のNGOのパターンっていうのは、もちろん衣食住を出していく、保障していく、プロテクション・・・保護っていう意味でのラインで止まっている、どっちかっていうと慈善で終わっている、チャリティーで終わっているパターンと、それを一歩超えて、子どもたちに権利意識を植えていこうっていうライツ・レイズ・・・子どもの権利はこうで、あなたたちにはこういう権利があって、社会では・・・政治の場ではこういうふうに主張できるんだっていうふうに今言っている。そのふたつがあるんですね。だけどもそれを、私たちのグループ・・・特に私とジョン・デバラジというアーティストは、それだけではやっぱり解決にはならない。それは何故かっていうと、子どもたちはエンパワーされなければならない・・・誰かが君には力があるっていうふうに言ってあげなければいけない。で、しかもその、自分っていうものを表現するアイデンティティーの場所が必要だ、と。自分を表現する場を与えることで彼らはエンパワーされて、社会に表現者として生きていくことができる・・・それこそが社会復帰であるって私たちは信じているんですね。だからそれをアートっていう、誰でもが楽しんでいける・・・しかも子ども時代にどんな人もアートに触れている・・・音楽があったりとか、演劇を観たりとか、ダンスをやったりとか、映画とか写真とか。どんな子ども時代にもアートっていうのはありますね。そういったアートを使って私たちは、子ども時代を奪われた子どもたちに子ども時代を返していこう・・・そして子ども時代に自分たち自身も戻っていこうっていうふうな理念を持ってるんですね。ジョン自身の言葉を借りれば、過去千年の芸術に於ける子どもっていうのは、常にサイドでしかなかった。つまり子どもっていうのは、世界の人口の40%を占めているにも関わらず、子どもに重点が置かれてこなかった。だからアートを使って、子どもたちを社会の中心に置いていこう・・・アートの中心に置いていこうっていう運動をしたいんですね。で、いろいろやっているんですけど、最新は、そういったいろんな芸術を教えて、しかも子どもたちが表現者としてエンパワーされて、関わっていく周りの大人が子どもたちからエンパワーされる・・・そういった場所である芸術学校を建てる運動を今、しています。で、4月・5月にキャンプがあって、初めて50人の子どもたちが集まって、7人ほど路上からそのままピックアップした子と、それからいろんなNGOからいろんなバックグラウンドを持った子どもたちが集まったんですね。それでそのキャンプは凄く大成功で、ドキュメンタリーフィルムも作りました。かなり力を入れて作ったので、是非観ていただきたいと思っています。今後は何故アートが良いのかと言えば、ストリートチルドレンというのはとにかく飽きっぽい。ひとつの場にいられない。ネガティヴなことを言ってしまえばいっぱいあるんだけども、社会からやっぱりちょっと外れちゃってるんですよね」



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打ち込めるものがない・・・?




「うん・・・でも彼らは絶対何か秘めてる力があって、それを引き出す必要がある。エジュケーションっていうのは、ラテン語でエドゥカシオンっていう「引き抜く」。何もないところに私たちが何かを与えるのがエジュケーションではなくて、既にあるものを引き抜いていく・・・例えば彼らは観察力があって、やることがない割には凄くよく見ていて、よく観察をしている。そういった彼らの観察力を測るには、よく見てるので、「詩を書いて欲しい」って言うと、詩に彼らの観察力が現れていく。でもその詩を書くのにはどうしたらいいのかっていうのを教えて、詩を書く場を与えるっていうのが大人の役割であって、それをその子どもたちから引き抜く、力を採掘していく・・・そういった場所にしていきたい、と。今、インドとかフィリピンでは芸術というものが・・・日本では、特にNGO界とかでは通じないんですけど、芸術というものがそういった力があるってことが認められてきてるんですね。今回、ボーンフリーアートスクールは、カルナタカ州政府の「学校へ戻ろう」っていう児童労働プロジェクトがあってそこの・・・要は児童労働者を労働現場から引き抜いてブリッジコースに入れるんですよ。で、そのスクールは各州の至るところにあって。その学校のひとつにアダプトしてくれるんですね。だから政府自身もそういった私たちのアプローチを認めてきている。今後拡大していく可能性がかなりあります。とにかくやっていて楽しい。教育っていうのは、ジョンが言っていたのが、「教育は楽しみから。そして楽しみは教育から」っていう、常に楽しいってことがなければいけない。だから、今の教育っていうのは脅しと共にある・・・体罰と共にある。そうじゃなくて手を上げないで、しかし、伝えていくことは伝えていく。子どもたちを教育していくっていうのは、やっぱり楽しくなければいけないし、そういった教育は可能だってことを証明するのがこの学校だと思います。私自身は今後その学校で、どっちかっていうと立ち上げのほうに関わっていて、で、一応名前はインターナショナルコーディネートですけど、ほぼ立ち上げの仕事をやってる、と。私自身はインドっていっても、バンガロールしか知らないので、かなり情報は限られてますけど、バンガロールの事情といえばそんな感じかな」


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じゃあ、やっぱりストリートチルドレンっていうのは、圧倒的にアンタッチャブル・・・?



「そうです。ほぼ、そうです。インド人は見てわかる。例えば色が結構黒ければそういうダリットの人。アンタッチャブルってあんまり言わないんですよ。ダリットって言って、ドクター・アンベードカルが、彼自身もカースト外・・・ダリットで、しかも仏教に改宗したドクター・アンベードカルっていう人がアイコンになっていて、その(彼の)言い方でダリットといいます。ちょっと話は逸れるけど、マハトマ・ガンディーは最近、結構批判される対象にまぁ、少しずつなってきて。それは何故かっていうと、彼がパキスタンとの分離独立を招いたのがひとつと、もうひとつは、彼はダリットのことを神の子=ハリジャンって呼んだんですね。マハトマ・ガンディーは、カースト制度自体を否定しなかったんです。彼自身もハイカーストだったし、カースト自身を否定しない。それに対してドクター・アンベードカルは、全く否定していった、と。そういった意味で、ダリットの人からはアンベードカルのほうが(支持されている)


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そうですね・・・活動を通しての悩みとかはありますか?



「悩み? お金。(笑い) アイディアはごまんとあるんだけども、資金がないという。(苦笑い) それが常に悩みですけれど。アイディアには困らない。あともうひとつ、私の写真展が“Wings of Freedom”っていう・・・自由への翼って、何故そういうふうにいうかというと、ジョンの“Take my Wings and Fly”・・・彼はこれは詩でもあり、ペインティングでもあり、それから歌でもあるっていう、これに私はかなり影響を受けていて、それでまぁ、“Wings of Freedom”って書いたんです。この子どもたちが自由に空を飛んでいくイメージを今は作りたいなと。フィルムで作りたいなと思っています」


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事前にインドに渡る前の予測と現地の現場とのギャップっていうのはどういうのがありましたか?


「まずイメージが湧かなかったのと、それから結構インドは貧富の差が激しい=むしろ、お金がある・・・国としてはお金がある、と。津波のときもお金があって・・・」


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インドは救助を要請しなかったですよね。


「しなかった・・・要らなかったんですよ。それはボリウッドスター・・・映画スターとかお金を出してたのもかなりあったし、政府も凄いお金出してたし。そういう意味ではお金があるんです。でもその、場所がまずいとか投資の仕方がまずいとか、そんなで。あと、結構いい暮らしをしてたりとかして、全然イメージとは違ったりとか、なかなか日本で暮らすよりいい生活だなって思ったりとかね、するし。結構お金が普通にあれば困らない国というのがあったし。まぁ現場で言えば、まだまだ現場に入るのはそんなに簡単ではないということも、ひとつはあります。やっぱりそれは個人によるんだけども、自分を結構恥ずかしいって思う・・・何というのかな、かなり現地化していかないと。やっぱりマーケットとかで写真を撮るとか、結構勇気がいることなんですよ。そんな簡単には、写真は撮れない。まぁ結構おせっかいという意味で色々、「自分も撮ってくれ」とかあることは・・・野次馬的にうるさい人もいて、それが煩わしいこともあるし、結構そういった子どもたちにカメラを向けるっていうのは、「なんだ、あいつ」っていう感じになる。だからそんなに簡単ではない。かなり勇気がいるっていうのと・・・そうそう私が行った頃はかなり感情的だったんですよ。どうしてもすぐグッときて泣いてしまうというところがあって。だけどジョンは「感情的になるんじゃなくて、そういった子どもたちが置かれている現状に対して怒りを感じなきゃいけないんだ。で、その怒りを行動に変えていく必要があるんだ」ってジョンはよく言ってて。聞いて、少しずつストリートチルドレンを見て、かわいそうって思う心は捨て去らなければいけないと思ったんです。かわいそうなんじゃなくて、そういった社会に置かれている状況に対して怒りがあるのと、無関心な大人がたくさんいることに対しての怒りも私は感じるし、それから本当にアンタッチャブルっていうのはまさにそのとおりで、本当に触りたくないっていうのが普通の人の・・・中間階層の人たちの態度なんですね。子どもたちと対等に付き合いたいんだったら、かわいそうと思ってる以上は、チャリティーでしか・・・慈善でしかないんですよ。だから子どもたちに対して「あんた、これはダメだ」っていうふうに・・・「ソリューションやってたらダメになるよ」っていうふうに叱ってあげる・・・“あげる”って言ったら変だけど、叱るぐらいで・・・最近は凄い取り上げて(苦笑い)、よく「ご飯を奢ってくれ」っていうから、ソリューションを止めたらご飯を・・・「20ルピーあるんだから、それをご飯に使え」って言うんですよ。そういうふうにやっぱりエジュケートしていく・・・対話をしていくっていうとこのレベルに立たない限り、やっぱりそれは・・・私たちのアプローチは慈善で終わってしまう。でもそこに至るまではかなり精神的に強くなければいけないし、インドっていう状況にも慣れないといけないし、時間が掛かるということ。そんな簡単にすぐ行ってできないこと・・・ま、人によると思いますけど、できないと思いますね」


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大体どれぐらいで慣れましたか?


「溶け込みはね、かなり大丈夫。やっぱり言葉ができないと難しい。あと何ていうか、インド人の付き合い方みたいなのが、住むとわかるというか。何ていうのかなぁ、インド時間だけじゃないけど、何ていうのかなぁ、感覚・・・みたいな。日本人だったら日本人の付き合い方があって、それなりのディスタンスみたいのがあって。それのインドバージョンがわかるのも凄い重要だと思うし。彼らは感性が凄い豊かだから、アートというのはかなり効果があって、それを社会が認めていけばいいなと思います」


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このアートスクールっていうのは、最終的にはアーティストがそこから輩出されることを・・・


「あ、そうそう。ごめんなさい。重要な部分でした、それは。今考えてるのは2年間のアカデミックコースにちゃんとする、と。で、そのあとは彼ら自身がアーティストとして生きたいというのであれば、きちんとアートカレッジに行けるようなストリームを作るのが凄く重要なのと、それから、もし「自分は普通のカレッジに行きたい」って言うんだったら、その場所を作っていくってことも凄く重要で、それをやっていきたい・・・それから世界中からアーティストとか若い人をとにかく・・・アーティストじゃなくてもいいんです、私みたいなアートティストじゃなかったけれどもアーティストになりたいとどっかで思ってるような人間が来てもいいんです・・・とにかく若い人に来てもらいたい。で、特に日本の若いエネルギーのある・・・あると思うんです・・・それを生かす場所がない。その場所にここを使ってもらいたい。で、来て、必ず保障できるのは、子どもたちからエネルギーを貰える・・・本当に学ぶことがあるし、分かち合いというのが凄い重要で、彼らの人生の経験とか痛みというのを分かち合う、同じアジア人として、人間として、分かち合うことが凄く重要でそれができる場所がここの学校だと思うんですね。いずれは、考えてるのが、大学の交換留学生・・・例えば立教だったら、交換留学生のひとつにインドの「ボーンフリースクール・バンガロール」っていうのを入れたい、ですね。こういう活動をしたい人はごまんといて、場所がなかったりとか、高いお金をどこか仲介業者に払ってボランティアに来る学生、いっぱいいるんですよ。だけどそうじゃなくて、お金があったら、もっとその何かを作り出すことにお金を投資するほうがいいと思うのね。(笑い) だからそういうところがあるんだっていうのをもっと広めていきたいです。だから大学の交換留学生の相手先に「ボーンフリースクール」をいずれは、と思っています。それがひとつかな。それから、個人的な願いは、宮崎駿さんに是非、協力をしてもらいたい、と。それは何故かというと、彼の「千と千尋」には凄い感銘したし、彼は児童労働を考えて作ったって言ってるんですね、あの作品。「子どもが働いてて、働いてる子どもが観てもわかるようなストーリーにしたかった」って。で、まさしく彼のいつものテーマは子どもが自由に空を飛んでるイメージっていうのが、どの映画にも絶対出てくる。飛んでるとか、走ってるとか、凄く自由だっていう感覚が共感できて・・・私自身、それからジョンも。それで「千と千尋」だったらボーンフリースクールの子供たちが吹き替え・・・演劇の一部として吹き替えの著作権を貰いたい・・・許可を求めたいのがひとつ。あとは、映画の収益金の一パーセントでもこういった児童労働に充てて欲しい・・・それが私の今の要求で・・・(笑い) どうやって宮崎駿監督に会えるかっていうのがかなり疑問ですけど。いずれはそういうアプローチもしたいと」


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活動を通して、学んだこととか、そういうのはありますか?


「学んだっていうか、自分は子ども時代に・・・みんなが子ども時代に戻りたがっている・・・若いというか、自由だった。子ども時代って一番自由なはずで、その時代に戻りたがっている。それを戻してくれるのは・・・私は大人だけど・・・子ども自身であって、最もポジティヴなエネルギーを貰えるのは子どもたちからであること。それから観察力・・・感覚っていうのかな、センシティヴである・・・敏感さとかは彼らから学べることかな。そんな気がしますけども」


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一番成功したアーティスティックな活動っていうのは・・・?


「これは今のボーンフリースクールは、まだスクールにはなってないけど、フィルムを見ればかなり成功してるのがわかるっていうのと・・・ま、送りますよ。かなり気合いを入れて作ったので(笑い)、まぁそれが成功したことかな。あと、カメラのプロジェクトをやってたんですよ、この2年。子どもたちにカメラを渡して、路上で撮ってもらって。あれは結構成功してる・・・まぁ、成功を何で評価するのかっていうのにもよるけど。でもカメラは子どもたち・・・特にストリートチルドレンにとっては、いい。リハビリのひとつになる。何かに夢中になるってことが凄く大事なんですよ。何かに夢中になれるってことは目的があるってこと、人生に。だからそういったソリューションとかは悪いことだって自分でわかっている。けども、止められない。それが中毒であって、止めたいけど止めるきっかけがない。だけども、カメラっていうもので止めていける。あるいは、ダンスで止めていけるとか。そういうきっかけをボーンフリースクールは与えることができるという意味では、まぁ、成功に繋がっていけばいいかなと。でもチャレンジです、かなり。これはチャレンジです。アートだからこの学校は日本の人にとって遠いところではなくて、誰もが参加できる場所なので、是非来てもらいたい。自分の持っている知識と時間とエネルギーを共有してもらいたい。彼らが、子どもたちが、彼らの人生の痛みを私たちに共有してくれるんだから、その代わりに自分たちの受けてきた教育とか価値観とかモラルとかを子どもたちに返していく仕事・使命が私にはあると思うし、そういったことはどんな人にもできると思います。うーん、日本から「子どもの権利活動家」という、いわゆる「Child Rights Activist」と私が言ってますけど、そういう人たちがいっぱい生まれればいいなと。それは日本の子どもたちが対象であれ、誰が対象であれ、権利という意識を私たち自身が子どものときから持つ必要があるし。それから保障していく人間になれる・・・そういった人たちが、特に若い層から生まれればいいと思ってます。エンパワーされるだけじゃなくて、自分がエンパワーする人間になる・・・っていうのも凄い重要です」
2005年6月12日@国連大学

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