さあ、今夜はちゃんこだ!

<2005年2月18日。浅草橋のちゃんこ料理店にて>
具材がてんこもりのお鍋が、どどんとふたつ、食卓の上に置かれた。
さすが、ちゃんこ・・・豪快そのもの。ちなみに「ちゃんこ」とは、鍋に限らずお相撲さんの食事全部を指す言葉。
だから、鍋以外もちゃんこなのだ。
そうは言っても、やっぱりちゃんこといえば、鍋しかないっ!!

ぐつぐつと煮込みが進行してゆく。出来上がりがとっても楽しみ。さぞかし美味しいに違いない。

この妙な自信の裏には当然、根拠がある。
今夜は、元お相撲さんとご一緒しているのだ。
「…それね、野菜をもっと沈めて。何でも聞いて、ちゃんこのことなら……あ、まだ火ぃ、強くしてたほうがいいよ」

もう…バッチリです♪
大至伸行プロフィール
今回、楽しくちゃんこ鍋をつつきながらお話を伺うのは…
元関取で現役時代から歌の上手さには定評があった大至伸行さん(公式サイト)。
1968年茨城県生まれ。1984年に初土俵。最高位は、前頭3枚目。
2002年3月に引退。一旦は準年寄として相撲協会に残るも、歌手になる夢を諦めきれずに退職を決意。
2003年9月プロの歌手としてデビュー。
























ところで、お相撲さんのライフスタイルってどんな感じ?


「今日は僕の記念日なんです」
席につくなり大至さんが口を開いた。

「昭和59年の2月18日に東京に来たんです。だから今日が上京22年目。茨城の日立には中学までしかいなかったから」

前相撲(序の口の番付を決めるための相撲)を取ったあと、その一番出世披露が卒業式の日と重なってしまって、生徒会長だったのに中学の卒業式には出られなかったそう。

「茨城の日立はあまり積もるところじゃないんですけど、もうそのときは前日から凄い大雪で凄い降ってましたね。生まれる前から父親が相撲取りにさせるっていうことを決めてて、別に反発をすることもなく、ただ親の言うことをずうっと聞いて来たんだけれども、本当はなんかこう、やりたくなかったんですよ。相撲取りはなりたくなくて。それで、学校の先生とか歌もやってみたいし、音楽のほうにも進んでみたいし…でも、「おまえはそんなのやんなくていいんだ! 相撲だけやっとけばいいんだ!」って言われて、それでまぁ、相撲取りになったんですけどね」

日本の国技・大相撲。
伝統に彩られた角界には、独特の慣習や雰囲気が漂っている。入門したのは押尾川部屋だった。

「子どもの頃から相撲をやってて、中学の3年になって全国大会に出たんですね。で、全国大会が終わって親方がすぐスカウトに来て」

角界に進んではみたものの、本当に自分はこれでいいのか、葛藤にぶち当たる場面はなかったのだろうか?

「最初はもう、やりたくない気持ちだったけれど、いざ入ってやるからには一生懸命頑張ろうって思って、同じ時期に入門する同期生っていうのが(同部屋に)4人いたんですね。で、そのあとにまた2人入ってきて…お相撲さん4人、床山さんと行司さんと合わせて、全部で6人で分担をしながら仕事をするんですよ。仕事っていっても何するかっていうと、上の人から言いつけられたことをやるだけ。で、あとはホントにもう下働き。使いっパシリ。その人の手となり足となるって感じで。部屋とコンビニを一日10往復くらいしてたもん」

「木場の部屋が建て直しをするので、浦安に仮住まいしてたんですよ。ちょうどディズニーランドがオープンしたときで。花火の音が聞こえるけれども、ディズニーランドには行けないっていう感じでね。もう、毎日朝早く起きて、自分の稽古をして、兄弟子の用意をして。朝4時半とか5時から。最初、半年間は相撲教習所っていうところが国技館にあって、そこへ通うんですよ。ちゃんと勉強するところがあるんです。月曜から金曜まで。もちろん、実地が基礎体力からあるんですけど、お風呂入ってご飯食べたあと、学科があるんですね。相撲史、国語、習字、今は相撲甚句になるんですけど詩吟。それと生理学。ほとんどみんな寝ていますけどね(笑い)。ホントに大学のお偉い教授が来て講義するんだけど、誰も聞いちゃいない(笑い)。朝早く起きて、夜だってねぇ、そんな早く寝られるわけじゃないし。ま、そんな生活が半年続いて、そのうちに僕の同期生は他の部屋を合わせて120人ぐらい入ったんですよ。だけど、半年経ったら半分。半分になっちゃったなぁ…」


超エリート-幕内力士は狭き門
---毎年、そんな感じなんですか?

「大体そうですね」

---じゃあ最終的に120人の中から幕内力士になる人ってどれくらいなんですか?

「…琴錦、湊富士、旭豪山、あと…大至とあとひとりぐらいですね。十両まで上がった人はプラス5人ぐらい。だから(関取になれるのは)大体一割。で、同期生っていうのは3月場所入門っていうのが同期生なんだけど、同じ年でちょっと検査で落とされちゃったり、遅れて入ってきたり…っていうのが5月とか7月とかに入ってくる。それが浪之花とか琴ノ若、それから安芸ノ洲っていうのがいて。まぁ、そんな感じで(半年で)半分になり、(教習所を)卒業したときは、半分以下だったかな、50人ぐらい。一年経つと、30人ぐらいになる。最初の一年で振るい落されちゃう。ねー、そんな感じで、やめようとは思わなかったけど、やめようっていうか逃げたいとは。親になんか、泥塗るような気がして」

---やっぱり十両上がるまではうちに帰れない…?

「ありましたね。最初の一年過ぎると、もう僕の部屋の同期生は、僕だけです。僕だけしか残ってなくて、床山さんと行司さんが残ってたけど出たり入ったりして。結局ふたりとも2、3年経って辞めちゃったんですけどね。だから最初の半年でお相撲さんは、僕ひとりになっちゃったんです 。ひとりになっちゃったから、その当時30名〜40名近くの兄弟子がいて、その人たちの廻しをしたりとか、洗濯をしたり。だから朝起きて、大体お相撲さんのサイクルって、稽古して風呂入ってご飯食べて昼寝をして、夕方4時ぐらいからちゃんこ番の料理をして、ご飯食べて、で、トレーニングする人はトレーニング、遊びに行く人は遊びに行く…で、門限が10時半ぐらいで寝て、また朝起きて…って、その繰り返しなんですよ。風呂なんてホントに、浴槽の10センチとか20センチぐらいのお湯しかない。それもお湯じゃない…もう水になってる。ええーっ、またこんなの!? そんなの毎日」

---一同笑い


お相撲さんになったのに、前よりも痩せちゃう
お相撲さんの資本は、なんといってもカラダ。
そしてその礎となるのが、ちゃんこだ。お相撲さんにとっては、食べることが第一の仕事だなんて言い方もされるほど。
そんなわけでさぞかしお腹いっぱい胃袋がはりきれんばかりに食べまくったと思いきや…衝撃の事実が明らかに。

「(兄弟子が全部食べちゃったから)もう、ちゃんこなんてなかった。ないない!! だからどんどん痩せましたよ。125キロで入ったのが、半年で95キロ。30キロ痩せました。95キロから2年間戻らなくてね。新米が入ってきても、いろいろ教えながら自分もやらなきゃいけないし、やっと楽になったなっていうのが3年経ったときぐらいかな…そこでまた後輩が入ってきて、そこから肥りだした。だいぶ楽になってきたから」

特に新弟子時代ともなれば、しごきやいじめの類も相当なはず。

「もう眠くて眠くてしょうがないでしょ? 時間がちょっと空いて昼寝とかできるときに、顔にバーーって落書きされたり、足の指と指の間にティッシュを詰められて火付けられたりとか」

---ええーーっ!?(驚)

「それからさ、お○んちん、紐で結わかれたりとか…絶対起きないから。何されても。「起きろーー!!」って慌てて起こされて、「ううっ!?」って起きるでしょ? そしたら中で繋がれてるから…(笑い) そんなこともされました。それを見てみんな喜んで」
まるで修学旅行が未来永劫、毎日続いてくかのような。
「電話番とかもあった。今みたいにケータイとかなかったから、40人もいるのに公衆電話2個しかない。電話鳴ったら3回までに取らないと、かわいがりだ!とかって」

---かわいがりって?

「メッタメタにされるのを、「かわいがり」って」

いろんな出来事にめげず、大至さんは無事、幕内力士にまで上りつめたが、「脱走」の誘いを受けたことはあったと話す。

「「一緒に逃げよう」って言われたりするんですよ。だけど「いや、俺行かない」って言って。でも後ろ姿見送るのは、すごい辛かった。頑張ろう!とは思うけれど、いなくなっちゃうのかあって思ったらね」

「体が大きくなるのと並行して番付も上がってくるんですね。お相撲さんは番付で身なりも決まるんです。三段目っていうところに上がると、下駄ではなく雪駄を履けるようになる。その雪駄をまず履きたくて。金具が付いてるから、擦って歩くと“チャリチャリっ♪”って音がするんですよ。それをまず履きたくてねえ。まだ三段目に上がる前に田舎に帰ったりすると、雪駄を隠し持ってって、田舎で履いちゃう!! みたいな(笑い) 幕下時代は一番よく遊びましたよ。運転しちゃいけないんですけど、こっそり運転したりして。で、どこ行ったと思います? …お台場(笑い)。富士箱根のほうにも行ったりとか。…お台場にはよく行ってたな。昔はフジテレビもなかったし、なんかこう…海で。幕下になると部屋の中でも一目置かれるっていうか、中堅どころですから。結構、小金も持ってたし。幕下に上がらないと、十両にも上がれないから、それがひとつの関所っていうか、そこに上がると後援会の人たちもね、頑張れ頑張れ!! ってだんだん言ってくれるようになって。幕下に上がると、冬にコートが着られるようになるんですね。それまでは着流しです…着物一枚だけ」


お相撲さんは忙しい
---一年に6場所もこなして、体のほうも大変でしょう?

「あのー、6場所だけじゃなくて、地方巡業があいだあいだにあるんですよ。だから本当にお相撲さんって大変だなあって思いますよね。そのとき(現役時)はよくわかんないけど。調子のいいときは次の場所が早く来ないかなあっていう感じなんだけど、だんだん年を重ねてくるごとにもうちょっとゆっくり来てくれ、とかね。あと、15日間も長いから疲れのピークっていうのは、9日目・10日目が一番疲れる。そこからは稽古量が活きてくるんだよね。稽古してる人は、10日目以降はやっぱり星を伸ばすね。幕下時代までの一場所7日間から(十両に上がって)15日間になって大変でしたね。ペースを掴むまでは」

年6場所+巡業とハードスケジュールをこなさなければならないだけに、ケガとの付き合いも厄介になってくる。

「6場所あるから治るヒマもなく次の場所。動かしながら治さないとね。専門のドクターが付くのは、やっぱり出世して関取衆にならないと。あとはもう、行った所で診てもらったりとか、それからかかりつけの町医者とか、あと接骨院とか針とかね、そういうのは行ってますね」

“その瞬間”の心地
現役生活からの引退は、アスリートの誰もがやがては遭遇する事態。
幕内上位まで出世を果たし、相撲の世界で十分な成功を収めた大至さん。
現役生活からの引退を決意させた、その瞬間とは…

「自分の体は自分でしかわからないから、自分が引退を決めた日っていうのがあるんですよ。僕は平成14年の3月、千秋楽で引退を発表したんですけど、13年(11月)の九州場所初日から中日まで5勝3敗だったんです。調子いい。ところが、9日目からまるで自分が別人になったかのように足が出なくなった。あれっ!? おかしい!! なんか足が出ない…急に来たの。なんか9月場所ぐらいからちょっと体調が…なんか悪いのか、調子が今ひとつ悪いっていうのは思ってたんだけど。で、九州場所突然(異変が)起きたから、おかしい…なんでこんなにおかしいんだろう…もう、足が全然付いていかない。終わってみたら6勝9敗だったんです。これひょっとしたら引退近いかもしれないと思って。九州場所から東京に帰ってきて、稽古をしなければいけないのに、もうその「引退」という二文字が頭にずーーーっとあって、稽古ができなくなっちゃったんだよねえ。できないっていうか、体が動かなくなっちゃう。そんな状況で正月明けて、初場所でしょ? そんなだから全然力も入らなくて。5勝10敗、かな」

「あっ、これでもう引退だな」って、そのときまず思って。自分のやめる場所は、来場所で終わりだっていうふうに思ってたんだけど、そこからもう一回、やっぱり3月の大阪場所までにしっかり稽古しなきゃいけないし、もちろん、後輩にも稽古つけないといけないし、とにかく恥ずかしくない相撲取らないといけないし、自分がやめる場所だからとにかく最後までしっかり取れるように頑張らなきゃいけないっていうふうに思って。それは誰にも言わなかった。おそらく来場所で終わりだ。いざ、よーいスタート!で初日が開くと、やっぱ勝負師って勝ちたいの。相撲に勝ちたいの。勝ちにいくの。どんな汚い手を使ってでも。いや、勝ちたい。その勝ちたい気持ちが先行していって、ますます足が続かない…ついてこなくなるのね。中日過ぎて、明らかに星も上がってないし、もうダメなんだ…もうダメなんだ…よく亡くなる人って、亡くなる前に自分の人生をずうっと思い返すっていうじゃないですか。そんな感じだったんです。入門したときああだったなあとか、このときこうだったなあとか…昔のことばっかり思い出して、それで…でも勝ちたいんだよね、土俵に上がると」

「でね、12日目に春日錦っていうお相撲さんに当たったの。で、そのお相撲さんに当たったときに、僕は流れで取る相撲だから、頭から行こうって決めるんだけど、ドーンってとにかく当たって、そこからの流れで勝ちを見出していく相撲取りだったから、そこに持っていくまでの気持ちっていうのがすごくあるんです。朝これだけの稽古をして、ご飯食べて、休んで、場所に入って…ってすごい自分でパターンが決まってた。で、入って、何分前に四股を踏んで、ずうっと自分のウォーミングアップの時間も決めていくんだけど、すごい勝ちパターンの日…なんていうのかな、体の動きっていうのがすごくあるのね。今日は勝てる、今日はダメだなっていうのがあって、その3月場所の12日目は、「これ勝てる!絶対勝てる!」って土俵に上がるまでそう思ってたの。体の調子もよくて。で、いざ最後の塩撒いて、はっきおい(はっけよい)、ダーンって当たって、すごい自分で「あー、いい当たりした!!」って思って、「いけ!!いけ!!」って思って相撲取ってたんだけど、全然足が出てなかったんだよね。「あれっ!?あれっ!? おかしい。勝ちパターンの日なのに…今日は勝てる日なのに…何で!?」って思ったら、何にもできなくて負けてた。そのときに、「あっ…ありがとうございました」。ホントに今日が、この日がやっぱり引退を決めた日だったね。で、13(日目)、14、15ってあったけど、その3日間は怪我をしないで最後まで…。で、14日目の朝に部屋の不知火親方に話をして、「もう体がついていきませんからやめさせてください」って師匠(押尾川親方)に言ってもらって。「もうちょっとやれよぉ」とか言われたんだけど、「すいません。もうできません」「よぉし、わかった。じゃあ、協会に言っとくよ。引退相撲はこの日だな」って。その日にもう決まっちゃうんですよ」

---そうなんですかぁ!? それも凄いですね(驚)

「先に日にちを押さえないと…で、14日目の相撲を取って、15日目の相撲も取って、そこまでは引退をするってこと、誰にも言わないの。もちろん、仲間内とかお世話になった人たちには言っといたけど、最後の相撲が終わるまではアナウンサーも言わないし。最後の土俵入りは、もう観客を土俵から見るのも最後だろうなあと思ったから、凄いもう、土俵入りの時間は…ホントにこんなにたっぷりした土俵入りの時間もなかったし、こんなにお客さん入ってるし、なんかこう場所って綺麗なんだなあって。そんなこと思ったこともなかったしね。でまぁ、田舎から父親が出てきて、かわいがってくれた人が最後の相撲に来てくれて、女房と子どもも来て、みんなで記念写真を撮って。絶対、泣かない!って思ってたんだけど、最後の…若い衆が…今までずうっとかわいがってきた若い衆が…うーんとこう、集まって写真を撮ったとき、すっごいブオーーーって泣けてきて。そこで大泣きをして最後の相撲に臨んでね、正々堂々と、思いっきり負けて、終わったんだけどね。ま、それが入門してちょうど18年、かな? ああ、これで引退だあっていう寂しさもあったけど、ここまでよく頑張ったし、ここ“が”引退の場所だ!って本当に思った。ちゃんと自分で“が” をつけられたから、うん。あー、楽しい現役生活だったねー 楽しかったぁ」


親方になるか…それとも、歌手になるか
「自分ひとりで相撲って取るものだけど、そこに支えてくれる人って数知れないほどたくさんいたからね。たった18年だけど、何人いたかなあ…自分に関わってくれた人たち。やっぱりそのひとりひとりの人たちが支えになってくれてる。だからその人たちを結果的に裏切る形になって、自分の道を選ばなければならなかった…一番、自分が歌ったら…部屋がなくなるって思ったら、若いお相撲さんたちがかわいそうだと思ったからね。結局、どこにも行くところなく、このままやめてっちゃうんだろうなって思ったし、どっかの部屋に合併されてまたやるんだろうなって思ったけど、そういうの凄く切なかったし。もう、この若いお相撲さんたちは、結局最終的には強くなって関取になるか、やめていくかしかないわけでしょ? そうなったときに変な話だけど、誰ひとりとしても僕のことを助けてくれる人はいないかなって思ったの…変な言い方だけどね。経済的とか何とかじゃなくって。ホントにやめていくときはみんな自分のことを思ってやめていくんだから。こいつらのために俺、師匠やるかなって思ったけど、いや、申しわけないけどやっぱり、自分のこと考えようって思って。自分をやりたいことをやっぱりやるべきだなって」

「だからみんなには…部屋を継ぐことができない…師匠ができないっていうことで…ホントに悪い…。引退相撲やって準年寄(「親方!」とは呼ばれるが正式な親方ではない。大至さん曰く、非常勤講師みたいなもの)って…まぁ親方で残った期間が一年半ぐらいあったのかな。その間、まぁ、二年という猶予を与えられて、その間に別な仕事を見つけるか、親方株を取得して協会に残るかっていう選択だったんだけど、ま、歌の道を選んで、そういう二年という月日を待たずに6月で協会やめてしまった。もう必要ないと思ったから。協会にいること自体が何か申しわけないと思ったし。部屋を継ぐんであればいいけど、継がないんだったら早くにやめて別な世界に行くべきだなって思ったから」

「最後の6月18日はホントに「ありがとうございました」ってやめられた。また稽古場で若い衆が花束をくれた。それも向日葵の花束を。向日葵が好きなこと、みんな知ってたから。ひとりずつ挨拶に来てくれて、そのときにまぁ、「ホントに心残りなのはお前たちのことだけ、お前たちの行く先が心配だ、それだけが申しわけないと思ってるけど、結果的に自分は自分の道を選んだから、みんなもこれからも頑張ってね」って感じで」

現役時代から歌の名人として花相撲などで相撲甚句を披露してきた大至さん。歌うことは幼い頃から大好きだった。

「歌やりましたねー。大好きだったから。中学のときは、柔道部に籍を置いといて、柔道でも部活で優勝してたし、もちろん相撲もね。あとは、砲丸投げ、水泳、合唱もやってたのね。合唱は先生に「やってくれ」って言われたから。「NHKコンクール」ってありますよね、あれに中学のときに出て、それで県大会ぐらいまで行ったのかなあ。5〜6年前にちょうどそのNHKの合唱コンクールが始まって20周年かなんかのときに各界の著名人にお話を聞きたいっていう企画があってね、中学のときに合唱に出た人を(NHKが)探してたんです。で、僕のところにもアナウンサーさんが来て「大至関、出ました?」って言われたから「あ、出ました!出ました!」って言ったら、インタビューされたんですよ。それがね、テレビで放映されてたの。半年間くらい。水前寺清子さんと僕と桂三枝さんだったかな、その3人しかいなかったんです、出てた人」

こうなりたいというのはある
宴もたけなわ、各々将来の目標などに話が及ぶ。大至さんには何か夢・目標があるのだろうか。
「そうだね、やっぱり歌を歌っていくっていうのはもちろんだし、マルチなタレントになれたらいいかなって。歌を基盤として。最初、オペラをやりたいと思ったんですよ。っていうのは、体が調子悪いときにイタリアの歌手の歌を聴いて、「この人になりたい」。ただ単純にそう思った。オペラは昔から好きだったから。でも好きな割には全然詳しくはないんだけど。こういう歌い方をしてみたいとか、まぁ、相撲甚句もずうっと歌ってたんで、相撲甚句になんか通じるものもあるかなあっていうのも、ひとつあったし。今でも目標なんだけど、やっぱりクラシックの勉強というものを小さい頃からしてないと無理かなあっていうのはすごく思う。でもそれをめざして、いろいろとそれに向かって、たとえ遠回りではあるかもしれないけど、すごい回り道回り道して辿り着くかどうかわからないけど、ずうっと夢として置いておきたいよね。どういう道を通ろうが、最終的にそういうものも歌えるようになったらいいかなあって思う」

「でも、こんな偉そうなこと言ってても、すごい今、自分の方向性っていうのはどういうものなのかなって探りながらやってるから、一応、こういうふうになりたいこういうふうになりたいっていうのが自分の中で5つも6つも持ってる中で、それをめざして今、いろんなものに取り組んでるっていう感じなんですよ。ちゃんとした方向性を自分で見つけていきたくてね。こういうふうにするべきなんだろうっていうのは、自分の中ではあるんだけど、でも、もっとほかの道があるかな、どういうものをやっていけばいいのかなって、いろいろ探りながらやったり。いいと思ったことはどんどんどんどん追求していって、それをまたさらにいろいろめざしていく…その繰り返しなんじゃないかな。たぶん、相撲取りのときもおそらくそうだったと思う」

絶対歌やりたい!
「歌をやりたいっていうのは、ホントに子どもの頃から思ってて、本当の本当の話は、相撲取りになりたくなかったんです。ちゃんと学校に行って、教師やりたいとか音楽やりたいとか、そういう夢を抱いていたんだけど、うちの父親がどうしても相撲をやれ…で、小さい頃からそういう教育をさせられて、洗脳させられて、相撲取りに行くように行くように、あたかも自分で道を決めたかのように(笑い)。結局、最終的には誰でもそうだと思うけど、「あいつがこう言ったから」とか「あのとき、父親がこう言ったから」とか…それは参考であって、でも結局、決めたのは自分でしょ? (相撲の世界へ)入りたくないと思うんだったら、入らないわけだから。それはやっぱり、責任は全部自分にあるはずだから、それは自分が決めた道だからね。やっぱり決めたからには一生懸命やろうと思って、まぁ関取まで上がってさ、で、とにかく父親の夢も自分の夢もとりあえず果たした。で、師匠(押尾川親方)からは「部屋を継いでくれ」っていう感じで、周りからも言われて、部屋を継ぐべきなのかなって思ったけど…「いや待て! 人生は一回しかない! 相撲の人生は終わった! 俺には歌しかない!」と思ったから、「部屋は継げません。ごめんなさい。僕は歌手になります」って言って」

---すごいですねー

「「すごいですね!」ってみなさんに言われるんですけど、もう僕の中ではそれはすごいことなのかどうか、よくわかってないんですよ。ずうっと考えてきたのは、ずーーーっと相撲界に入ってからも、絶対歌やりたい歌やりたいって思ってて、その気持ちをとりあえず置いといて相撲に頑張って。相撲を終わらせたから、また改めて、夢がグワーっとこう、戻ってきちゃったのね。また歌やりたい歌やりたいって、うわーっと思ってるときに「部屋を継いでくれ」って言われて、やっぱり自分が継ぐべきなのかな、継がなきゃいけないのかなってすごい思いましたよ、それは。だって僕しかいないんだもん。僕が継がなかったら、この部屋は絶対に潰れるって…実際そうだし(今年、押尾川部屋は尾車部屋に統合された)、そういうふうになるんだろうなあって思ってた。でも、いろいろそこでやっぱりね、迷いがありましたよ。いろんな人たちの話を聞くと、「相撲界でしか生きてきてないんだから、そこで生きていくべきだ」っていう人。「それは自分の好きな道をやってみたら?」という意見。どっちかでしたよね。恐らく、「部屋を継いで親方になったほうがいいんじゃないの?」って人のほうが多かった」

「どうしようかなあって、ひとりになると毎日考えてました。だけど、最終的には、まぁ、そのときには結婚して子どももいましたから、女房に相談したら「私はあなたが決めたほうについていくから」っていうことを言ってくれたのと、あと、「大丈夫よ!お金はなんとかなるから」って言ってくれたのと、まぁ、それが強かったかな。想像したんですよ。相撲の親方になって弟子を育てて、っていう自分。それとステージで歌ってる自分を想像したときに…明らかに頭は、もう、ステージで歌ってる自分しか想像がつかなかった。一回の人生の中で、「あのとき、こうすればよかった…」って後悔するよりは、やったけど…ま、ダメかどうかわからないよ?これからだから。やってみて、「精一杯やった!でも、ダメだった」。それでいいじゃない! 「歌やってきた。ここまでやって頑張ったけど、やっぱり俺、歌向いてなかった。よし!また別の世界に行こう」。たとえ別の世界に行ったときに、ここまで一生懸命頑張ったんだっていう思いが絶対あるだろうなって思ったから」


今やるべきことを知る
自分の進みたい道を、湧き上がる周囲の期待に反して部屋を継がない決断をしてまで選んだ大至さん。それだけに、受けたプレッシャーの重さは並大抵のものではなかった。歌手デビューを目前にして、苦悩の日々が続いた。

「もちろん、この世界で成功しなかったら、部屋の師匠とか若い衆とか、本当に応援してくれた人たちには申しわけないから、本当にこの世界で生きていかなければいけないし、なんとか名前も売っていかなければいけないから、すごく責任も重大だし。それを考えたときに、改めて思ったことが、「あー、失敗したかな!?」って思った。歌やって失敗したなあって思った。やっぱり親方やっておけばよかったなあって思ったんだけど、それはそのときに置かれてる自分がものすごく切羽詰って、大変な時期だったんです。「相撲だったらどうしたろう?」って思ったときに、怪我をしたとき、病気をしたとき、勝てなくて苦しかったとき、どうしたかなあって思ったら、それでも相撲を取り続けてたわけ。それはそういう環境であったし、家族もいなかった…自分ひとりだったっていうのもあったかもしれないけど、今は相撲を取るべきだって自分に言い聞かせて、そうやって自分が最後まで、ぶっ倒れるまで一生懸命頑張って、これでいい…じゃなくて、もうここで…精一杯頑張ってここがやめるときだ…「ここが!」自分のやめるときだって思ったときまでやったから。だからこんなことで悩んでちゃダメじゃんとかって思って。自分で自分を」

「自分はもう相撲界を断ってこっちに来たんだから、やっぱりこれは迷ってる場合じゃない、なんかしなきゃ!…って思ったら、なんか自分がすることが…することすら迷ってた時期があったのね…何をしたらいいんだろう…「歌手の苦労をしなさい」ってポーンと演出家に言われただけだったの。「え? 何したらいいんですか?」って聞くのも恥ずかしいし、わかりましたっていうしかない。でも、ひとりになって、歌手の苦労って何すればいいんだろう…。自分はショーをするにあたって、何をしなきゃいけないんだろう、何をしたらいいのかもわかんなくて、ただその人は、ヒントをくれるだけだった。そこで初めて、失敗したなって思った。でも、歌を歌っていくには、「自分は歌を歌っていくんだ!」ってズーンと気持ちをひとつにしたときに、これもやらなきゃいけない、これもやらなきゃいけないってね、全部やるべきことがね、バアーーっと浮かんできた。だからそのときにはとにかく、集客をしなければいけない、構成を考えなければいけない、詞も書かなければいけない、歌詞も覚えなければいけない、練習もしなきゃいけない…そういうのが出てくるじゃないですか。それまでは何をしたらいいのかわからない。どんな歌を歌っていいのかわからない。どんな喋りをしていいのかわからない。でも、それはヒントをぽっ、ぽっと貰ったときに、これをすればいいんだって自分の頭で考えて、一歩ずつ一歩ずつ前進していった。そしたら、今度その演出家と僕が、言葉のキャッチボールができるようになって、そこからは早かったね」

「9月30日にディナーショーをやるってことを決めて、最初、会場を押さえないとできないから、それに当たる準備期間っていうのが…6月30日に(日本相撲)協会をやめたんですよ…それからちょこちょこと仕事は来てたんだけど、とにかくディナーショーが自分のデビューだから、ディナーショーに向けてやっていかなきゃいけないときに、「どうしたらいいんだろう?どうしたらいいんだろう?」ってしているうちに日にちは刻一刻と迫ってくるわけでしょ。もうホントに焦るよねえ。その言葉のキャッチボールができ始めたのは、(残り)一ヵ月なかったね…(笑い)。8月のお盆過ぎから少しずつわかってきたのかな。演出家とホントに話をし出したのは、8月の末から9月の頭ぐらい。あのときはイタリア語、スペイン語、英語の歌もあったでしょ…歌10曲をそこから覚えて(笑い)。まぁでもあのとき、ホントに短い期間だったけどあの演出家がついてくれたおかげで、こういうことをやらなきゃいけないんだっていうものがね、見えたから。やっぱり、生活っていうか生きていくことは与えられてるものだと思うんですよ。そこに絶対無駄はないと思うしね。だから、今やらなければいけないことっていうのは、必ずあると思う。やりたいことはとりあえず置いといて、やるべきことを見つけて、それをやるべきなんだなっていうのが、なんかこう、わかってきた」


常に笑っていられるように
産みの苦しみを経て、大至さんはいつもポジティブに仕事に取り組んでいる。

「昔ね、人生って凄い苦しむものなのかなあって思ってたけど、やっぱりね生きていく上で苦しみながら生きてく人っていないし、何を求めていくかっていったら、楽しみを求めているから苦しみも我慢ができて、嬉しいことがあるから…悲しいことがあって悔しいことがあって切ないことがあっても、それを乗り越えていって、いずれは楽しいことに結びつけるように頑張っていくわけだから、やっぱり人生、楽しくなきゃいけない。そこに、楽しみに行くまでの過程であるからね。だから常に笑っていられるように、頑張ろうかなと。今は仕事が楽しみでしょうがない」

今は毎日が楽しくて楽しくてしょうがない…そう話しているときの大至さんの笑顔を見ると、ああ本当にそうなんだなということがビンビン伝わってきた。大至さんの第二の人生はまだ始まったばかり。これからのご活躍、期待してます。

素晴らしいお話に美味しいちゃんこ。

ごちそうさまでした。そしてありがとうございました。
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山田系太楼 Yamada*K*taro