アイドルと「アーティスト」の違いは、何が消費対象となっているか、その差による。安室奈美恵も浜崎あゆみもアイドル的人気を博し、アイドルのように扱われてもきたが一応、建前的には、作品を売っていた。これに対しアイドルは、アイドル自身を売る要素が非常に強い。殊にグループアイドルの場合は、握手券等の売上がグループ内序列を構成する上でも大きく作用する。安室や浜崎も異性との結婚や交際を経て今に至っているが、結婚や交際発覚を機に人気が急落する事態には陥らなかった。



安室人気の急落が明らかになったのは1997年5月21日発売のシングル「How to be a Girl」であり、同年夏に発覚したSAMとの交際・妊娠・結婚よりも前のことである。同様に浜崎も、2001年に入ってからシングル売上低下が進んでおり、人気が落ち着いたのは、同年夏の長瀬智也との交際発覚によるものではない。





アイドルとアイドル的アーティストの違いは、売り物の違いに起因する。通常、CDは何枚も買うものではない。1枚あれば十分である。ジャケットや収録内容に違いがあれば、なるべく全てを揃えたくなるのが人情であり、近年は「綺麗な売り方」をするアーティストは減少傾向にある。が、自分が(CDに附属している)握手券を何枚・何十枚と買うことで、メンバーの序列向上に寄与するとか、或いは握手会で何分もメンバーと会話したいからと云う理由で大量にCDを購入するケースはアイドル的アーティストでは中々起こり得ない。アイドルにとって異性との交際発覚が痛手になるのは、ファン1人当たりの購入金額が非常に大きいからである。今まで20枚買っていた人が0枚とはならずとも、応援する熱が下がったことで2-3枚の購入に止まってしまうことは、人気急落へと直結する。

今述べた「応援」と云う概念もアイドルにとっては非常に重要となる要素である。人々は思い切り応援することの出来る相手を求めている。それでは思い切り応援することの出来る相手とはどのような人だろう。脇目も振らずに一つの物事に没頭している人である。夢に向かって一途に進んでいる人となる。そこには「リア充」=私生活の充実は含まれない。私生活をもなげうって頑張っている人を、より応援したくなる。当然、異性との交際は歓迎されない。



今にして思えば華原朋美と云う存在は画期的なものであった。華原はプロデューサー小室哲哉との真剣交際を武器にしてスターダムへと駆け上ったからである。「アーティストに手を出したのではない・恋人をアーティストにしたのだ」と云う小室の釈明はしかし、シンデレラストーリーとして同世代女性にも受け入れられていった。10-20代女性人気の高さは華原の特徴の一つであった。小室との仲が悪化、疎遠なものとなるにつれ、小室の提供する楽曲の質が下がったことも手伝い、華原の人気は下がっていった。





浜崎あゆみは華原の改良版である。浜崎もまたプロデューサー松浦勝人に見出されたシンデレラストーリーを武器に「カリスマ歌姫」になった。しかし公式には浜崎と松浦は恋愛関係にはなく、歌詞は必ず自作詞とするなど、自立性を高めている。これが華原以上の「カリスマ」を浜崎にもたらした。






第8話 はじめに

 STU(瀬戸内)48の塩井日奈子が個人配信の中で瀬戸内の運営に対する不満を吐露したことが話題となった。曰く「STUには人権がない」と。堤幸彦による演劇選抜メンバーに選出された塩井は、他のAKBグループのメンバーと共に東京で活動をした期間があった。当然、それは食事に出掛けたりして他の姉妹グループとの交友を深めるには良い機会となる。ところが瀬戸内の運営がそう云ったプライヴェイトでの交友を一切禁止したと云うのだ。塩井と共にメンバー入りしていた薮下楓はこの云いつけを守ったようだが、塩井は守らなかったために説教を喰らったらしい。また、難波のエースである山本彩が広島でソロコンサートを開いた際にも、マネージャーが同伴出来ないことを理由に、泣く泣く鑑賞するのを断念したそうである。

AKBは「自由」だったが

 塩井は瀬戸内加入当初、恋愛禁止では無かったことへの喜びをSNS上に漏らしていた。だが直後にそのことが発覚、バッシングを受けた過去がある。「さあ、今からアイドル活動をスタートさせよう」と云う時期に、あたかも恋愛する気満々だと受け取られかねない発言をすることは不適切だと云う指導を、一応は受け容れたと聞いた。瀬戸内の活動は始まったばかりであり、飛躍するかどうかの正念場である。余計なスキャンダルで水を差すわけに行かない。したがって恋愛で制約を受けることは仕方なしと割り切っていたように思う。が、恋愛以外の、それも姉妹グループとの交友や、コンサート鑑賞と云ったところにまで運営が介入してきて、自由な行動を認めないとなれば、これはもう基本的人権が何も尊重されていない状態ではないか、と云うわけである。

 運営からのお達しを無視する形で塩井は東京で他のメンバーと自由に交際をした。堤幸彦以下クリエイター陣との仕事も大層刺激的だった様子だ。しかし瀬戸内の本拠地である広島に戻ってしまえば、あとは制約の多い元の詰まらぬ生活が待ち受ける…塩井は「自由」なAKB本店を羨ましがっていたが、確かにこれでは絶望以外の何物でもなかろう。ほどなく塩井は瀬戸内からの「卒業」を表明し、離脱していった。

アイドルとは「偶像」である

 AKBの人気が下火になる中で誕生した後発グループである瀬戸内は、同じ秋元康プロデュースグループでもメンバーが管理されている感の強い坂道シリーズを範にしつつ、その運営を行っていて、他のAKBグループよりも「自由」が無いことは確かなようである。が、特にAKB本店などは人数も多いことから、自由と云うよりも寧ろ放置に近い側面を有している。選抜メンバー中心に回っているとは云えども、全メンバーになるべく仕事を回すようにしていると見受けられる瀬戸内は、不人気メンバーは放置される一方の本店よりも仕事面では恵まれているとも云える。

 しかしそもそもアイドルに自由はあるのか、人権と云うものがあるのだろうかと私は思う。どうしてアイドルの文化は日本独特のものとして花開いたのか、AKBは盛んにそのフォーマットを海外に輸出してアジア一帯に姉妹グループが出来そうな情勢にもなってきているが、なぜそれはアジアでばかり許容されているのか。アジアでは人権思想が発達しておらず、日本の人権状況を上回ることがないからではないのか。

 第一、アイドルとは何か。それは正しく「偶像」である。偶像とは、崇め奉られる反面、人間扱いされない存在である。幾ら大切に扱われたとしても所詮は物扱いに過ぎない。偶像は人々の理想の通りの偶像として振る舞うことが要求される。それが偶像の偶像たる所以である。偶像は物語の中心であり、生身の人間にある願望をリアルに仮託された存在である。したがって偶像の内には、偶像自身の自己主張する要素は含まれ得ない。物からは、心地良い態度だけを発して貰いたい…どうせなら気に入ったデザインであって欲しい…綺麗に映らないテレビは要らないし、癪に障る言葉を発するペットロボットも要らない。気持ち良くなれない偶像は要らない。

 ところで秋元系アイドルでとかくクローズアップされるのが「恋愛禁止ルール」についてである。これは実際に契約書に記載されていたが、2013年1月の峯岸みなみ坊主謝罪事件を一つの契機として明文法から慣習法化されたと聞く。この「恋愛禁止」に関して、年頃の女子が恋愛することは当然であることもあって人権侵害の指摘を度々受けている。しかしこの云わば恋愛至上主義的価値観とでも云うべきものは、非常に不適切だと云わねばならない。何故なら、もっと基本的な人権がアイドルに認められているとは思われないからである。

偶像とは都合の良い存在

 欧米とは異なり、元来日本の芸能界では政治的な活動は盛んではない。これは日本の芸能界が反共・自民党一党優位制の下でそのお抱えとして、政財界中枢と密接な繋がりを持っていたからでもある。加えて、儒教的価値観から芸能人の地位は低く、一人前の人間扱いをされてこなかったから、芸能人個人が自らの判断により政治的主張をすると云う生意気な行為など、とんでもないことであった。政治活動をすることは芸能界主流との距離を置くことを意味した。

 シンガーソングライターの台頭等により芸能人の「アーティスト」化が進むと、この傾向には変化も見られたが、基本的に日本の芸能界・芸能人は、体制に取り込まれてその社会的地位が上昇することと引き換えに、体制に奉仕する役割を担う存在であった。営業先に媚を売り、万人に都合の良い存在である為に、特定の政治・宗教的主張を公にしないことを要求される。だが自立志向のある小生意気な「アーティスト」が増える中、アイドルと云うものは、時代の要請により育まれた妖精であった。それだけにアイドルの価値とは、場を盛り上げ、和ませる存在性に強く依存することとなる。角の立つようなことをしてはいけないわけだ。

 ここで重要なことは、体制側に与して活動することはその中に政治・宗教性を帯びていたとしても政治・宗教活動とは見做されない点である。体制側が行うイヴェントやキャンペーンに芸能人は引っ張りだことなっているが、中でもアイドルはその筆頭に位置する。またテレビ番組等で寺社に参拝する姿も多く流される。その一方で体制側が行うイヴェントやキャンペーンに反対すると政治的であると見做され、教会を訪問しても祈る姿は流されない。したがって体制側に与することは政治・宗教的行為ではないから、個人としての政治・宗教的信条に反するものであっても「強要」させられることになる。しかしこのことは、個人として尊重される基本的人権の原則に反する。つまり基本的人権が保障されていないこととなる。

 この点が日本よりも人権思想が進み、個人が確立もされている欧米に於いて日本型のアイドルが成育されない理由となろう。例えば地域の祝祭時などにその中心となるキリスト教会を訪問し、そこで神父・牧師からのメッセージに耳を傾けることなど、イスラム教徒や左派色の強い家庭に生まれ育ったメンバーは拒絶することになろう。仮にそれを仕事の一環であるとして強要した場合、大いに問題化される。また、個人的に政治・宗教的活動に参加するだけでなく、主張を発信すること自体も妨げられることは有り得ない処置であろう。人前に出れば笑顔で愛想良くマスコットとして振る舞うことが要求される。それは他の、例えば接客業に従事していても同じだろうとの指摘もあろうが、しかし欧米の接客業従事者は、必ずしも愛想の良いものではない。「個人」と云うものを豊かに出してくる。

個人が尊重されない社会意識性

 「恋愛禁止」は問題視される一方、政治・宗教活動への大幅な圧迫は問題視されない…ここに日本社会の特質がよく表れている。人々の間に体制との連帯意識が強い為に、独立した社会観と云うものが大きく育っていないのである。社会的制約は受けても、個人の内面に深く切り込む形で「転向」が強要されていなければ…即ち選挙での投票先であったり、棄教・改宗することまで求められていなければ…その社会的制約は当然視され、そもそも制約であると見做されることもない。体制との共同歩調を取ることは、寧ろ社会適応性を備えていることとして好評価の対象となる。「内心の自由」と社会適応を別物とは考えずに一体化させ、両立可能なものとして扱い、内心の自由の発露の結果としての社会活動の自由・表現の自由と云う認識及びその必要性に思いが至らない。

 他方、恋愛関係と云うものは、相手が居て、関係を結ぶことに応じなければ成立しない。内心の自由だけでは、それは片想いであって、恋愛は成就されないわけである。したがって内心の自由が満たされていれば問題無しとは見做されないのである。加えて先述の通り、体制との共同歩調が社会適応に於いて重視されているから、個々人の政治・宗教観は尊重されないことが、人々の印象面に於ける「恋愛禁止」の突出ぶりに繋がっている。

 恋愛活動の禁止は苦痛であっても、政治・宗教活動の制約が苦痛であるとは認識されない…このように、個人の範囲内に収まるかどうかのみによって当該行為に対する判断を下し、社会性を軽視する点、また、内心の自由は尊重すれど、その発露に際しては大幅な制限を課す点、そしてそのことが人権を侵害しているとは見做されない点に、日本的個人主義の特徴と云うものが出ている。アイドルの跋扈は、そう云った今日の日本の状況を象徴する現象なのだ。



AKB乃坂道 表紙
uploaded 2018.1123 by 山田系太楼どつとこむ
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